ソフトバンク、孫正義さんのどん底の時・チャンスの時

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正義さんは、ソフトバンクの創業者。
誰もが知る、経営手腕も情熱も超一流の企業人です。

それだけに孫さんへの見方も、
好き・嫌い、敵・味方の評価がはっきり分かれるようです。

断言できるのは、孫正義という希代の経営者は、
「志(こころざし)」の面で、
今後長らく名を残すだろうということです。

孫さん、20代半ばの頃のエピソードです。

孫さんは、突然の病に倒れました。病名は慢性肝炎。

それも肝臓がんへ進行する可能性の高い肝硬変寸前の状態。

死亡リスクの高い重病です。

孫さんは、まだ20代にして、
「5年は(命が)もつかもしれないが…」
と診断されてしまうのです。

1983年。

創業時3人だった社員も125人に拡大。

会社は、売上高45億円の企業に成長していました。

ずっと入院したままでは、自分より先に会社が倒れてしまう。

そこで、医者には「命を縮める」と叱られながらも、
3日に一度は病院を抜け出して会議に参加します。

入院当初の夜、孫さんは、病院でひとりメソメソ泣いたのだそうです。

「会社も始動したばかり。子供もまだ幼いのに、
 俺もこれで終わりか……」

こんなに勉強して、こんなに熱い気持で会社を起こしたのに、
たった5年で俺の命は終わるのか……。
これまで何のために仕事をしていたんだろう……。

入退院を繰り返す日々の中、さらに問題が浮上します。

当時、主力事業のひとつだったパソコン雑誌の出版が、
8誌発行するうち1誌を除いて赤字に陥ってしまったのです。

年間赤字は2億円!

当時の役員会議では、全会一致で、
「出版部門は売却か完全閉鎖」という意見に達しました。
…孫正義氏、ただひとりを除いては。

「冗談じゃない!」

社長である孫さんは、机を叩いて叫びました。

撤退論は絶対に受け入れないと。

出版事業は、来るデジタル情報革命へのプロセスとして欠かせないもの。

だからこそ、必死に軌道に乗せた、という経緯があります。

孫さんはたびたび病院を抜け出しては、直接陣頭指揮をとり、
「これより3ヶ月以内に
 黒字にならなかった雑誌はすべて廃刊にします」
と宣言しました。

これに各雑誌の編集者たちは猛反発。

「あんたは出版界の経営者として適切ではない」
とまで言われるも、孫さんも負けてはいません。

「お前らの(雑誌への)愛情は偽物だ。
 俺は本当に出版事業を愛しているんだ」
と机をたたいてこう説明しました。

その説明は、経営者・孫正義の本心から出た言葉でした。

しかし、それが議論紛糾の種にもなったのです。

その説明とは>>>

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の説明はこうでした。

「わが子が交通事故で重傷を負ったとき、医師から
『片足を手術で切断すれば命は助かる』と言われたら、
 親は命を守ることを優先する」と。

この発言は、出版事業全体の命が奪われかねないときに、
自分たちの雑誌の存続しか頭になくてどうするんだ、
という孫さんの怒りから生まれた言葉でした。

口角泡を飛ばしての大喧嘩になりました。

結果、このときから3ヶ月間は毎週会議を開くことに。

さらに各雑誌の損益計算書を提出してもらい、
コスト意識を徹底させることにしました。

読者アンケートを見直し、その意見に沿って、
ひとつひとつを修正していきました。

半年後、どうなったか

1誌を除き、すべて黒字になったのです。

その年の出版事業部の忘年会。

「本当にみんなよく頑張ってくれた」

そのひと言だけ発し、孫さんは声につまり黙ってしまいました。

孫社長が初めて社員に涙を見せた瞬間でした。

ちなみに孫さん、
入院中は、経営書、歴史書、コンピュータ書など、
あらゆる種類の本を、3,000冊以上買い込んで、
病室のベッドでむさぼり読んだそうです。

そのときに、若い頃に読んで感銘を受けた
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』も改めて読み直しました。

龍馬は脱藩してから、約5年で日本を変えていきます。

「5年はもつかもしれないが…」と宣告された自分の寿命。

「あと5年もあれば、相当大きなことができるのではないか」
と孫さんは思い直しました。

そして
「たかが自分の命くらいでくよくよしてどうするんだ。
 もっと大きく構えにゃいかん」
と思うきっかけになったそうです。

闘病生活は、人生の価値観を見直す貴重な時間になったのです。

家もいらん。車もいらん。

物欲は全部なくなった。

ほしいのは命だけ。

命さえあれば家族に会える。

孫さんのおばあちゃんは、いつもこう言ってたそうです。

「人様のおかげだ。どんなに苦しいことがあっても、
 どんなに辛いことがあっても、誰かが助けてくれた。
 人様のおかげだ。だから、絶対人を恨んだらいけない」

14歳のとき、韓国から日本に渡ってきたおばあちゃん。

韓国籍で日本語もカタコトで、知り合いもなく、
おまけに戦争も体験した。

それでも「人様のおかげだ」
これが、苦労の連続だったはずの
おばあちゃんの口癖でした。

病気と向かい合って、孫さんは、
大事なのはお金じゃないんだ、そう気づいたのです。

地位でも名誉でもないんだ、そう気づいた。

おばあちゃんがやっていたような、人に喜んでもらえるようなこと。

そういう貢献ができたら幸せだ。

入院してから、なおさらそう思ったそうです。

そして、3年間の入退院を繰り返して迎えた1986年。

何と画期的な治療法が見つかり、
孫さんは完全復帰を果たしたのです。

「どん底は、人生で一番大切なことに気づくチャンス」
なのでしょうね。

参考本:心が折れそうなとき、キミを救う言葉
   (SB文庫)ひすいこたろう著

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