今年のプロ野球は、40歳代のベテラン選手が次々と引退を表明しました。
中日の谷繁元信、和田一浩、小笠原道大、谷佳知(オリックス)などなど・・・。
そんな中にあって、ソフトバンク・ホークスの松中信彦選手(41歳)は、
今年きりでホークス退団後も現役続行の意向を表明しました。
目に涙を浮かべてこう述べました。
「入団する時は逆指名でホークスを選んで、最後はホークスで終わりたい
という気持はありましたけど、やっぱりそれ以上に野球がしたい」
松中選手は、飛びぬけた打力で注目され、
96年のアトランタ五輪では日本代表の四番に座り、
5本塁打を放つなど、銀メダル獲得の原動力となりました。
またプロ入り後の2004年には、
史上7人目の三冠王の栄誉に輝いたのを始め、
栄光の足跡を数多く残しています。
優れた野球人生を送ってきたかのような松中選手ですが、
栄光と同じほどの、苦悩と挫折を経験してきた人でもあります。
投手兼一塁手だった八代一高時代は、ボールを投げられないほどの、
肘の重症を負いました。
「野球を続けるのは無理」との医師からの宣告を受けます。
しかし、松中選手は、「はいわかりました」と諦めるほど、
物分かりのよい少年ではありませんでした。
右投げの訓練をし、さらに徹底的にバットを振って、
打力を磨きました。
その甲斐あって、新日鐵君津への入社が叶い、
ノンプロ野球の世界で頭角を現していきます。
ただまともなスローイングができない松中には、
指名打者しか試合に出場する道はありませんでした。
やがてオリンピックの候補選手としてノミネートされると、
シーズンオフで左ひじの手術をすることにしました。
「オリンピックに出場してプロへ」
チームメイトや会社の同僚に、
「そんなの無理だろう」と言われても、
松中はただひたすらバットを振り続けました。
その後は、前述のようにアトランタ五輪での活躍、
そして、97年には逆指名のドラフト2位で
福岡ダイエー・ホークスへの入団に至ります。
日本を代表するスラッガーとして、
誰もが一目置く選手に成長してきました。
しかし、栄光と表裏の関係にある故障や怪我を避けることはできず、
右ひざ半月板や左手首にメスを入れると、
出場機会も次第に減少してきました。
若手の台頭も重なり、2010年には79試合の出場、
2012年には、ホームランも4本に留まりました。
ホークスの首脳陣も辛かったと思います。
松中選手の力量は、もはや来季の戦力構想からは外れています。
しかし、それをあからさまにしたのでは、
これまでの彼の貢献度や実績を考えても申し訳ない。
そこで、チームの方針を伝えた上で、
「ならば引退します」
と空気を読んでくれることに期待したようです。
ところが、松中選手の結論は、冒頭の談話のように、
ホークス退団後も、現役続行という意思表示だったのです。
栄光を極めた松中選手です。
それにずっと所属し、
大きな愛着のある球団から離れることになったのです。
なぜ、松中選手は、そうまでして現役野球選手にこだわるのでしょうか?
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現役へのこだわりの理由を、松中選手はこう語っています。
「一軍の選手と対戦し、『これはダメだ』と思えば引退した。
でも『もうちょっとこうすれば、チャンスがあるんじゃないか』
という気持が芽生えてきたので。
もうボロボロになるまで、自分が納得するまで
やりたいと思います」
ここ2~3年の自分の成績を見れば、
戦力外を通告されるのは十分予想できることでした。
しかし、悩んだ末に松中選手が決意したのは、
美しい花道は選ばないということでした。
それは自身の野球人生が、
情熱よりも執念で続いてきたものだからです。
今後、どこからも声がかからなければ、
引退するしかありません。
しかし、そんな寂しい引き際より、
挑戦しないことの方が格好悪い。
これが松中信彦選手を支えてきた考え方です。
その松中選手、2016年3月1日は引退の記者会見を行うに至りました。
松中信彦選手
「本当に19年間、良い時も悪い時も温かい声援を頂いたので、
ファンの皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
将来は野球に携わる仕事をやっていきたい」