広島カープの危機と「たる募金」のお話

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シーズンの出だしはどうなるか、と危ぶまれていましたが、
さすがに常勝軍団となった広島です。

6月現在のところ、リーグ1位を走っています。

広島カープは他の球団のような特定の親会社を持たず、
市民球団を源流としています。

その分、他の球団と異なる特別の歴史を持つ球団でもあります。

戦後間もない1950年が球団発足の年ですが、
早々に球団存亡の危機にさらされました。

球団設立時から貧乏球団だった広島カープは、
2年目のシーズン(1951年)が始まる前に、
セリーグ連盟から呼び出され、経営について厳しい叱責をされます。

というのも広島球団は、
選手の給料や合宿費用も捻出できないほど
財政難に陥っていたのです。

『プロ野球はお金のない者がやるものではない!』
そんな叱責でした。

一番大切な野球用品の支払いも滞るほどの財政難だったのです。

そんな中、カープの2軍は解散し、
選手やコーチなど約20人がクビになりました。

そして、2年目のシーズン前に最終通告を受け
『大洋ホエールズとの合併』が決まったのです。

そのことは当時、ラジオでも広島市民に伝えられ
選手も含めて多くの広島市民が涙したそうです。

当時の監督、石本秀一氏は球団幹部との役員会が行われる場所、
『天城旅館』に向かいました。

石本氏は、球団消滅を撤回させるべく、
強い交渉を行う心の準備をしてその場に向かったのです。

石本氏は『天城旅館』に着いて驚くべき出来事に遭遇します。

そして、その驚きは球団存続のきっかけにつながります>>>

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城旅館』には、すでに多くのカープファンが駆けつけてました。

そして、旅館を取り囲み、カープ存続を訴えていたのです。

監督・石本氏は、これほどまでに広島カープを愛してくれる
ファンの行動に深く心を打たれ、
こみあげてくる涙をこらえるのに懸命でした。

すでに解散が決定していたカープでしたが、
球団幹部側は、とりあえず解散を撤回せざるを得なくなりました。

それには二つの理由があったのです。

ひとつは、石本氏の強い意志に裏付けられた言葉でした。

石本氏の「全てはわたしに任せてくれんじゃろうか」
という言葉には、幹部一同を黙らせる迫力があったといいます。

さらに二つ目の理由です。

何といっても多くの広島市民の切なる声に、
耳をふさぐことはできませんでした。

広島カープ解散のニュースが広島に流れた後、
8人のファンが広島県庁などの施設に乗り込み、
支援の交渉をしました。

カープファンには有名な『八人の侍』です。

この行動をきっかけに企業の援助を受けることができ、
あの有名な『たる募金』も市民の発案で行われることになります。

広島市警や企業など団体での寄付も行われ、
監督や選手も募金を募るため県内を行脚したそうです。

たる募金の名前だけ有名ですが、
カープの資金難を救う行動の一つにたる募金があって、
たる募金のみでカープが救われたわけではありません。

当時の監督の石本氏が提案したカープ後援会や企業の援助、
そしてたる募金を含めたすべてが揃って、今のカープが存在しているわけです。

それでも、たる募金の効果は絶大で、
多い日で1日に10万円もの大金が募金されていたそうです。

当時の1試合の入場料収益が20万円だったので信じられない金額ですね!

最終的に400万円を確保し、カープの経営は上昇し始めます。

このたる募金は1960年代まで続いたそうです。

親会社を持たない球団でお金に窮することが多かったのですが、
だからこそ『市民の球団』という意識が、広島市民のカープ愛を強いものにしました。

2009年に完成したマツダスタジアムの建設にも『たる募金』が行われました。

最終的には1億2千万円ほど集まったといいます。(建設費は約110億円)

広島カープ関連だけではなくて、
寄付や募金活動の際に『たる募金』が登場するほど、
今、広島のたる募金は浸透しています。

ちなみにカープ存続に大きく関わった『八人の侍』ですが…。

この八人の存在もまた広島らしいお話しです。

このうちの一人として名乗り出ず、
現在も名もなき市民として所在は分かっていません。

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