中央競馬において、デビュー年の1964年に5連勝を挙げ、
翌1965年の日本ダービーに優勝して、
最優秀4歳牡馬と最良スプリンターに選出されました。
ただこのキーストンという競走馬は、強いとか速いとかで
名前を残したわけではありません。
パートナーの山本騎手との絆の強さで名前を残した馬です。
たとえば、期待された重賞レースで負けた時など、
落ち込んだ山本騎手がレース後、
キーストンに会いに行った時のことです。
山本騎手は、
「俺が未熟やから負けたんや、ごめんな」
と謝りました。
そのときキーストンは、山本騎手に近づいて
自分の額を山本騎手の額にくっつけて、
じっとしていたそうです。
山本騎手は
「いつも私が落ち込んでいると、慰めるように
おでこにおでこをくっつけてくるんですよ」
と語っています。
1967年、地元の阪神大賞典を6歳最後のレースに選びました。
僅かに出走頭数は5頭。
木枯らしの吹きすさぶ阪神の3100m戦で、
キーストンは1番人気の支持を受けました。
山本騎手を背に、軽快なピッチで
レースを引っ張ったキーストンでした。
逃げ馬のキーストンは最初から最後まで、
前を誰にも譲ることなく、疾走していました。
周回2周目の、最終コーナーを回った時点まで
2馬身ほど差をつけての1位でした。
しかし直線を向いてスパートを掛けた際に、
誰もが予想もしない悲劇が起こりました。
ゴール手前約300mの地点で故障が発生。
キーストンは前のめりにバランスを崩し、
山本騎手は、そのまま落馬してしまいます。
山本騎手は頭を強打して脳震盪を起こし、
一時的に意識を失いました。
悪夢の4コーナーでした。
転倒したキーストンが倒れたまま
苦痛にあえぐ姿を、誰もが想像していました。
ところが、多くの観衆の見守る中、
観客の想像を裏切る行為をキーストンがとったのです>>>
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キーストンは、転倒後、立ち上がり、
後方で昏倒している山本騎手を振り返りました。
そして、故障した左前脚を浮かせた3本脚の状態で、
山本騎手の傍らへ歩いていったのです。
この時、山本騎手は一時的に意識を取り戻しており、
以降の出来事について以下のように語っています。
「あー、えらいことになった、と思いましたが、
気がつくとすぐそばに、キーストンがいたんです。
ということは、そこから離れていったのに、
また僕のところに帰ってきたわけですよね。
そういうことは朧げに理解できました。
それからキーストンは膝をついて、
僕の胸のところに顔を持ってきて、
鼻面を押しつけてきました。
ぼくはもう、夢中でその顔を抱きましたよ。
そのあと誰かが来たので(中略)
その人に手綱を渡して『頼むわ』と言ったまでは
覚えてるんですが、また意識がなくなりました」
この様子を目の当たりにしたのは、場内のファンに留まらず、
テレビの前の多くのファンたちでした。
テレビ中継においても一部始終が放映されており、
実況を担当していた関西テレビアナウンサーは、
声を詰まらせながら、必死に様子を伝えました。
キーストンは山本騎手の手を離れて、
馬運車に収容された後、左第一指関節完全脱臼で
予後不良と診断され、直後に安楽死の処置を施されました。
山本騎手が再び意識を回復したのは、
キーストンが安楽死を施された後のことでした。
キーストンの事故、山本騎手との最後の様子は、
ファンの間で大きな反響を呼びました。
競馬ファンであった文筆家の寺山修司は、
キーストンをテーマに「夕陽よ、急ぐな」
というエッセイを著しました。
こちらにその時の場面を撮った動画があります。
よろしければ、ご覧下さい。