なぜ小伝馬町の牢獄は幾度の火事でも、移転しなかったのか

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暦三年(1657年)日本史上最悪の大火災が起こりました。
『明暦の大火』と呼ばれる歴史的な火事での出来事です。

伝馬町牢屋敷の牢奉行、石出帯刀は悩んでいました。
強風にあおられた猛火が、伝馬町牢屋敷に迫っていたのです。

牢屋敷の罪人をどうする。

このまま何もしなければ、罪人達は焼け死ぬことになります。

しかし死罪が決まっている者までいる。

そんな連中を『切り放し』にすることなど出来ません。

『切り放し』とは、囚人たちをいったん、牢から解き放つことです。

もし『切り放し』をして町民に被害がでたら、
腹を斬らなくてはならないのです。

江戸市街のみならず江戸城本丸を焼き払い、犠牲者は10万人以上。
小伝馬町牢屋敷にも火の手が迫る勢いです。

時間がない!

石出帯刀は決断しました。

「すべての罪人を切り放しする!」
「ただし三日の後には必ず浅草の善慶寺に集まること、
 もし雲隠れしたら私が必ず見つけ出して
 一族郎党全て成敗する!」

こうして、120~130名の罪人達は
『切り放し』となり江戸の町に散って行きました。

あの罪人達が戻って来るはずはない。
石出帯刀は腹を斬る覚悟でいたのです。

独断で牢の戸前を打ち破り、
規則を破ったことを自分の罪として
引き受ける覚悟はつきました。

約束の3日後、約束の場所・浅草の善慶寺に、
罪人たちが戻ってくるかどうか>>>

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火後、それでも石出帯刀は、一縷の望みとともに、
罪人たちの戻りを寺で待ちました。

帯刀はじめ、部下の役人たちは目を瞠りました。

罪人たちが、一人二人と戻って来るではありませんか。

約束の三日目には、
なんと『切り放し』した罪人全員が戻ってきたのです。

石出帯刀は罪人達に聞きました。
「よく戻って来てくれた!」
「しかし何故戻って来た!死罪になることが分かっているのに!」

ひとりの答えが皆の気持ちを代弁していました。
「石出様、あっし達はろくでなしの罪人ですが、
 卑怯者にはなりとうございません。
 私らを助けてくれた方に腹を切らせたら
 外道に成り下がります」

そののち帯刀は、義を重んじる罪人たちの態度に感じ入り、
老中に伺いをたて、彼らの罪は罪一等を減じられることになりました。

この話には後日譚があります。

その後も小伝馬町は町中にあるため、よく火災に遭いました。

明暦の大火後、幕末まで十数回も火災に見舞われ、
そして、そのたびに囚人の『切り放し』を繰り返していたのです。

なぜ、そんな場所を移転して、
人里離れた「火」から安全な場所に牢を置かなかったのか。

火災による類焼の多い牢屋敷。
そして、「切り放し」のたびに、
期日までに帰った者への罪を一等減じる慣例。

火災と減刑。

言いかえれば、類焼の危険性が高い場所に牢獄があれば、
囚人の刑が軽減されるチャンスも多くなるのです。

このため幕府は「牢屋敷を小伝馬町から移転させなかった」
そんな記録が残されています。

当時も、色んな議論が重ねられた形跡がありますが、
結局は「仁慈」を大切にしよう、
罪人たちに「人間に戻る」契機を与えよう、
という結論に落ち着いたようです。

お人好しでお情け主義かもしれませんが、
日本人の僕らの先輩たちが、
そんな結論を導いたことに嬉しさと誇りを感じます。

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