天皇さまが泣いてござった

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和天皇は、昭和21年から敗戦で疲弊した各地の国民を励ますために、
全国巡幸を開始されました。
 
 
昭和22年3月、天皇が九州に巡幸され、
佐賀県での第一番の行幸予定地が「因通寺洗心寮」と発表されました。
 
「因通寺洗心寮」とは、戦争被災児救護教養所で、
その時には、満州からの引き上げ孤児四十余名が収容されていました。

5月24日朝8時50分、
天皇の御料車が因通寺のある基山町に入られ、予定地に停車しました。

早朝から待機していた基山町のほとんど全人口と思われる人々から、
自然に「天皇陛下万歳」の声が湧き上がりました。

天皇は因通寺の山門から参道の坂を登られ、
さらに二十三段の石段を登られて境内に入られました。

そして、待機していた県知事の挨拶を受けられ、
激戦地から生還してきた若い住職の説明を受けられました。
 
その時、天皇は、住職に歩み寄られ
「親を失った子ども達は大変可哀想である。
 人の心の優しさが子ども達を救うことができると思う。
 預かっている沢山の子ども達が、
 立派な人になるように心から希望します」
と申されました。

それから天皇陛下は、引き上げ孤児のいる
洗心第一寮と洗心第二寮に歩を進められました。

各寮では、子ども達がそれぞれの部屋で、
陛下をお迎えすべくお待ち申し上げていました。

陛下は、各部屋の前に立たれて子ども達に御会釈をなされ、
そして、わが子に対するように、
一人一人の子どもにお言葉をかけられたのです。
  
「どこから?」
「満州から帰りました」、
「北朝鮮から帰りました」

「あ、そう。おいくつ?」
「七つです」
「五つです」

「立派にね。元気でね」
 
陛下が次の部屋にお移りになられるとき、子ども達の口から
「さようなら。さようなら」と自然に言葉が出ました。
 
すると陛下は、
「さようならね。さようならね」
と親しみを一杯に湛えたお顔で、挨拶をなさいました。

ところが、このように部屋の前で、
陛下の方から子どもに話しかけられていたのに、
ある部屋の前で、陛下は、直立不動といってよい姿勢で立ち止まられ
一点を見つめて身動(みじろ)ぎもなさらなかったのです。

陛下の後に続いて廊下にいた侍従長、宮内庁長官、
県知事そして警察本部長達は、何事があったのかと
足を止めて陛下を見つめました>>>

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のとき陛下は、部屋の中の三人の女の子の、
真ん中の子が胸に抱きしめていた二つの位牌を
じっと見つめておられたのでした。

そして、女の子に、静かな声でお尋ねになりました。
「お父さん、お母さん?」
「はい、これは父と母の位牌です」

「どこで?」
「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。
 母は引き上げの途中、病のため亡くなりました」
 
「お一人で?」
「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。
 船に乗ったら船のおじさん達が親切にしてくださいました」
 
「お淋しい?」
「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。
 仏の子は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんとも
 お浄土にまいったら、きっともういちど会うことができます。
 お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、
 私はみ仏さまの前に座ります」
    
その時、陛下のお顔が変わったように随行の者は思えました。
 
すると、陛下は、部屋の中に入られました。
そして、右手に持たれていた帽子を左の手に持ちかえられ、
右手をすっと伸ばされて、
位牌を抱えている女の子の頭をお撫でになりました。
何回も、何回も。

そして、おっしゃいました。
「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」

そのとき、天皇陛下のお目からは、
ハタハタと数滴の涙がお眼鏡を通して畳のうえに落ちていきました。

そのとき、この女の子が、小さな声で「お父さん」と呼んだそうです。

これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられました。

その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣いたそうです。

東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていました。

いよいよ陛下が、御料車に乗り込まれようとしたとき、
寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、
陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」と申したそうです。

すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると
「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」と申されました。

御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれます。
そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていました。

宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれています。

 みほとけの
  教へ まもりて すくすくと
   生い育つべき 子らに幸あれ

出典:調寛雅(しらべかんが)著(教育社)
   「天皇さまが泣いてござった」

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