多くの物語で光秀は、秀吉との対比で語られます。
光秀は頭脳派のエリート、秀吉は人情派、人たらしのたたき上げ。
そして光秀は天下の逆臣として討たれ、
秀吉は光秀を踏み台に天下を取ります。
多くの光秀に対するイメージは「裏切者」というものですが、
いまだに、彼がなぜ信長を暗殺したのかについての、
正確な情報は得られていません。
「信長への恨み説」も仮説にすぎないのです。
むしろ光秀に対して残された記録には、
領民思いの人、奥方を終生愛した心優しき人
という記述が多く残されています。
明智光秀は、信長に仕える前、美濃国の土岐氏に仕えていました。
そこで、後の妻、煕子(ひろこ)と縁談がまとまります。
そのときのエピソードです。
当時は結婚するまでお互いの顔は知らないのが当たり前でしたが、
光秀は幼い煕子を遠くから見かけたことがありました。
青年になり祝言で対面する際に、
光秀は花嫁の「異変」に気がつきます。
何かが違う。このおなごは煕子ではない、
光秀はそう感じました>>>
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光秀の直感は当たってました。
祝言の席に姿を現わしたのは、煕子本人ではなかったのです。
ことの真相はこうでした。
嫁入りの数日前、煕子は疱瘡にかかりました。
一命は取りとめましたが、顔に醜い痘痕が残ってしまいました。
このため、煕子の家(妻木家)では、破談にならぬよう、
顔も仕草もよく似た妹を、煕子として祝言に送りこんだのです。
結婚当日、光秀はこれを知るとこう言いました。
「たとえ見かけが醜くなっても、
私の相手は妹でなく、姉の煕子である」
そして煕子を迎えに行き、二人は結ばれたといいます。
それから後、光秀が仕える土岐氏が、
斉藤道三によってのっとられました。
そのため、光秀は浪人となり、
やがて越前の朝倉義景に仕えるのですが、
その間、光秀はひどい貧乏の中にありました。
その頃、朝倉氏の仲間同士では、持ち回りで会を準備し、
飲んだり、食べたりする習慣がありました。
しかし光秀は、日々の食事も満足にはできない暮らし。
そこで、煕子は、当時、女の命といわれる自分の黒髪を、
こっそり売って、他の仲間に恥じないもてなしをしたといいます。
それを知らない光秀は、贅沢なもてなしに驚きました。
光秀は自分の催す会を終え、無事面目を保つことができました。
今でいう面目と当時のそれとは比較にならないものがあります。
当時の武士にとっての面目は、命と同じ重さがあったのです。
光秀は、後で贅沢なもてなしの理由を知り、
厳しく妻を叱りつけました。
が、同時に心中は、いたく感激し、
「一生、側室は持たない」と心に刻み込み、
それをその通り実行したのです。
これもまた武家の頭首としては、子孫づくりの必要性から、
複数妾の存在が当然のところ、光秀の煕子に対する情愛が偲ばれます。
煕子は光秀より先に病没しますが、
病の床で、主人の身の回りの世話を妹に依頼しました。
妹も、夫婦の契りは交わさずとも、
姉に代わり光秀の世話に専念したとのことです。
やがて、光秀は信長に仕えます。
近江坂本城主にまでどんどん出世し、
そして、本能寺へと突入していくことになります。