塙宣之さんと土屋伸之さんの二人組です。
塙さんのお兄さんは、佐賀を売り物にするピン芸人の「はなわ」さんです。
「ナイツ」というコンビは、’08年から3年連続で
M-1グランプリの決勝に進出するなど、実力派で通っています。
塙宣之さんが、ブレイクの転機となることについて、語っていました。
お笑いの芸人さんが、テレビに出て活躍するまでには、
相当苦しい下積みの経験をします。
塙さんいわく、ほぼ100%の人間がバイトせずには、食っていけないそうです。
塙さん自身は、高校時代からお笑いの稽古に励んでおり、
大学は落研の名門で話芸を磨きました。
大会で大学日本一に何度も輝く名門の中で、
「塙は面白い」「塙は天才だ」
そんな、ほめ言葉に包まれ、売れる自信があったのです。
ところが、プロに入門したら、まったく通用しない。
「おもしろくない」「つまらない」「ありきたり」
などの冷ややかな反応ばかりでした。
コンビを組んだ土屋さんとも険悪な雰囲気になりました。
「鬼教官」と呼ばれる若手育成のマネージャーがいました。
かなりしごかれたそうです。
昼は、浅草で呼び込みをしたり、師匠にお茶を入れたり、
時にはステージに上がりますが、お客さんはお年寄りばかり10人ほど。
夜は新宿に移動して、ライブに出ますが、ここでもさっぱりウケません。
落ち込んだまま夜勤のバイトに直行する日々。
それが5年ほど続きました。
その間、鬼教官からは「最低でも月に5本はネタを作れ」と言われていました。
でも無理でした。
日々、下働きの日常、時間があればバイトで稼がなければ食えません。
せいぜい頑張って、月に1本のネタしか作れませんでした。
後で塙さんは気づきますが、出来なかったのは、
実は、どこか「やらされ感」があったからなのでした。
悶々とする日々を送っていたある日、
左官屋さんのバイトに駆り出されることになりました。
お笑いとは、180度ほども関連性のない左官屋さん。
だけど、この仕事を体験したおかげで、
塙さんは光明のきっかけをつかみます>>>
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左官屋さんのバイトは、朝6時に起きて、夜6時まで、セメントまみれの毎日です。
これが、肉体的にすごくキツくて、死ぬほど疲れたそうです。
終わると、部屋に帰り泥のように眠ります。
そして起きたら早朝から現場にかけつけます。
そんな日々が約1ヶ月続きました。
それで日給1万円でした。
この時、塙さんはハタと気づきました。
つくづく芸人としての自分は、ラクし過ぎだろうと。
稼ぎの根源であるネタづくりにしたって、月5本どころか、
毎日6時に起きて、夜の6時までネタを作るくらいの働きをしないと、
他の仕事と割が合わないじゃないか。
塙さんは腹を決めました。
よし、これからはどんなに疲れていようとも、
一日一本、漫才のネタを考えようと。
それまでは、月に1本だから、一気に30倍の勢いです。
塙さんはこう述べています。
「考えてみると、芸人にとって芸を考えるのは仕事。
それをおろそかにして、お金をもらおうなんて、虫がよすぎですよね。
僕らは、ネタを考えて、芸を磨いて、その芸を見てもらって、
生活できています。この根本は忘れてはいけないと思っています」
鬼教官も、やる気のある人間には、それなりの場を提供するものです。
場の提供といっても、芸人を「鍛えるための」場の提供です。
それからの「ナイツ」は、寄席を中心に、
年間500回くらい舞台に立たせてもらいました。
これが、実によかったそうです。
漫才がどんどん上達していくのが実感できました。
こうなれば、人はいい循環に入って行くわけですね。
漫才が上達する→楽しい→ウケる→ますます磨きがかかる
塙さんは、今でも毎日ネタを考えているそうです。
歩きながら、電車に乗りながら、お風呂に入りながら……。
どこでも忘れないように、すかさずスマホに入れて、
ブログにも毎日アップしています。