第二次大戦後の韓国内で、133人もの孤児を育てた日本人女性がいます。
彼女の名前は、永松カズさん。
『38度線のマリア』と呼ばれました。
1927年(昭和2年)、東京の杉並に生まれた生まれた永松カズさんは、
父親の顔を知らないまま、4歳で母親とともに満州へ。
その2年後、大切なお母さまを亡くし、
わずか6歳で、天涯孤独の身になりました。
農奴として転売されながら、満州の荒野を放浪し、
やがて終戦を迎えた時、カズさんは18歳になっていました。
このとき、いったんは日本へ帰りますが、
身寄りも無いうえ、焦土と化した祖国にカズさんは絶望しました。
やがて、物心ついて育った満州に思いを募らせた彼女は、
3年後に再び、日本から半島に渡りました。
しかしその時点では、現在の北朝鮮と韓国の国境である
北緯38度線を超えることが出来ず、ソウルに留まります。
間もなく、朝鮮戦争(朝鮮半島が北と南に分かれた戦い)が勃発します。
戦いの悲惨さは、カズさんの目前でも繰り広げられました。
胸を撃たれて銃弾に倒れた女性、
その胸に抱かれて血まみれになっていた男の子が目に留まりました。
カズさんは、何のためらいもなく、
無我夢中でその男の子を救出しました。
そのことがきっかけとなり、
彼女は戦火の犠牲になった孤児たちを、一身を賭して助けよう、
そう心に誓いました。
戦争の終結に伴い、ソウル市内にバラック小屋を建て、
孤立無援のまま肉体労働を重ねました。
露店で理髪業を営んだほか、軍手づくりや豆炭売り、
ときには売血をして孤児たちを育て続けたのです。
いつも30数人の孤児の世話をして、
生涯で133人の戦災孤児を育てました。
やがて彼女は、ソウルの人々の間で、
「愛の理髪師」と呼ばれるようになりました。
その頃には、韓国ばかりでなく、日本にも支援者が増えていきました。
1971年に朴正熙大統領(パク・チョンヒ大統領、現在のパク・ウネ大統領の父君)
から、韓国名誉勲章が授与されたときのことです。
叙勲式の際に、カズさんは、普段着に下駄ばき姿で現れたのです。
慌てたのは大統領府の職員たちでした。
靴だけでも履き替えるように申し出ました。
ところが、カズさんの返答はこうでした>>>
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カズさんは言いました。
「私は他に何も持っていません。
これでだめなら帰ります」
断固として、職員の申し出を拒否し、
そのままの姿で叙勲式に臨んだのでした。
「転んでもダルマの如く立ち上がれ」
その言葉が子供たちへの口癖だったそうです。
卑屈な生き方を嫌い、甘えを許さなかったカズさんは、
ダルマの親子の絵を描いて、壁に貼っていました。
その精神は、日本人の誇りとも言えるものでした。
生涯、日本人としてのアイデンティティーを守り、
反日感情の強かった当時の韓国においても、
普段から、和服とモンペ姿で通したそうです。
また、端午の節句には、
遠慮なしに鯉のぼりを立てていたといいます。
長年、重労働を続けていたことから、
次第に体調を崩すようになり、
「死ぬときは母国の土の上で死にたい。
死んだら富士山の見える所に眠らせてください」
と語るようになりました。
そして、永松カズさんは、
56歳の若さでお亡くなりになりました。
残された子供の一人は、
葬儀で涙ながらに手紙を読み上げました。
「温室の花の如く育てず、
いかなる暴風雨でも耐え得る、
根の深い木に成長させようとされた」