言葉ではなく、背中で大切なことを教えてくれた人

b341
の頃の私は、非行少年のレッテルを貼られていることを
名誉とさえ思え、悪友と粗暴な行動の毎日。

高校だけは、曲りなりに卒業し、就職したものの、
長続きするわけもなく、その後は3ヶ月ごとに職を変え、
まさに地に足がつかぬ日々を過ごしていました。

真面目にコツコツ働く多くのおとな達が哀れに見え、
命令口調で怒鳴りまくる上司に、未熟者の私は、
「てめぇら、なめんじゃねえぞ!
 ばかやろう!」と。

愚かさを繰り返し、職を変えていました。

そうした中で、西新宿の小さな喫茶店で働くことになりました。

異常な回転率で、目まぐるしく出入りする客。

私より四つ年上である細身の森さんは、
次から次と追いかけてくるオーダーを、手際よくこなしていました。

飲食業が初めての私は、失敗の連続。

そんな繰り返しが一ヵ月と続き、足手まといの連続。

普通であれば、怒鳴り声が飛ぶか、
クビになっても文句が言えない状況でした。

そんな不手際を、森さんは笑顔で見守ってくれました。

そればかりか、普通は下の人間がやるべき汚い仕事や、
嫌な仕事の一切を自分でやる人でした。

客が引いた時などは、私を休ませてくれて、
皿洗いや片づけをしてくれます。

最初は、この店の方針がそうかなと思っていましたが、
遅番の仕事ぶりを見て、どうやら自分の思い上がりに気づきました。

森さんは言葉ではなく、自らの行動で私に教えてくれていたのです。

それが自分の中の何かを、
根本から打ち消す結果をもたらしてくれたのです。

それからというもの、
私は少しでも周りの人の役に立てるよう努めました。

その日は朝から雨が降りしきり、
店は雨宿りがてらの客でハチの巣をつついたような状況でした。

一人の女性客が、
「すいません、トイレ詰まっていて、使えないんですけど…」

この店のトイレは男女兼用で、便器は一つだけ。

それが詰まったとなれば、営業中止ともなり得る一大事。

私は急いで、出来得る手段を用いて回復を試みましたが、
水は溢れるばかり。

客の苦情が聞こえる中、修理屋を呼ぶ余裕などありません。

私は立ちすくみ、顔色が青ざめるのが自分でも分かりました>>>

スポンサーリンク

↓Facebookの続きは、こちらからどうぞ↓

こへ森さんが来て、白いワイシャツを
二の腕までまくり上げたかと思うと、
汚物が逆流している便器の中に素手を突っ込んだのです。

詰まっていたトイレットペーパーのかたまりは、
みごとに取り除かれ、便器の機能は回復しました。

「これじゃあ、いい男台無しだな。でもよかったな」

屈託のない笑顔。

私は唖然としてしばらく声が出ず、
金槌で頭を殴られたような衝撃が走ったことを憶えています。

いくら急を要するとはいえ、そこまで出来る人はいません。

ケチなプライドを持つより、もっと大切なこと、
分かっているようで気づかないこと、
人生において大事なことを、
森さんと働いた2年間で、すべて教わったような気がします。

そのコミュニケーションは、いつも言葉ではありませんでした。

その後、森さんは田舎の事情があって、
佐賀の方に帰郷することになりました。

「オレ田舎に帰って、海苔づくりするよ。
 有明海だ、九州の方に来る機会があったら、連絡してくれ」

森さんが去った後、私も店を辞め、他の仕事に就くことになりましたが、
それまでのことが、いかに他の方面でも役立ったか計りしれません。

いつも信頼という二文字が残っていくのが分かりました。

もしかしてあの人は
神様だったかもしれないと思うのでした。

≪後略≫

この5年後、この記述の筆者は、仕事で長崎に行った機会に、
ホーム上で森さんと再会したそうです。

「これオレが作った海苔だ。
 東京へ帰ったら食ってくれ、うまいぞ」

”夢を見ているようでした。
 疲れは一気に飛び、同時に何にも替えがたい
 悦びと涙がこみあげて、どうすることもできませんでした”

と結んでいます。

参考本:「心に残るとっておきの話」第三集より(潮文社)

スポンサーリンク