終戦の翌年、昭和21年夏のある日のことです。
ご主人を戦地に送り出された女性のところに、
一人の復員軍人らしい人が訪ねてきました。
その女性のご主人と、戦地で共に行動した人でした。
ほんとに辛い役目ではありますが、ご主人の死について、
遺族の方に出来るだけ、死の前後の様子をお知らせするために来たのでした。
その人の話はこのようなものでした。
「私たちはニューギニアのジャングルの中を逃げ回る日々。
食料は皆無に近く、私たちは骨と皮ばかりで、
とても軍隊の体を為していませんでした」
悲惨な戦地での様子を、その人は淡々と伝えました。そして、
「あれは、確か6月4日のことでした。
その夜も仲間達とジャングルの中を歩き回り、小休止をしていました。
しばらくして出発の合図があり、皆が立ち上がって歩きだしました。
が、私の隣に腰をおろしていたご主人は立ち上がろうとしませんでした。
『おい、出発だ、さあ行こう』と声をかけましたが、動きません。
よく見ると、もう彼の息は絶えていたのです」
ご主人ばかりでなく、多くの人がこのように行軍中にバタバタと倒れていったこと、
またそばの土を盛り、形ばかりの墓にして去らざるを得なかったことなどを、
奥さんに告げました。
奥さんであるこの女性は、驚きと口惜しさと悲しみとが、一時に込み上げてきました。
が、しばらくして、ふと思い出すことがありました。
彼女は、いつも欠かさず日記をつけていたのです。
「ちょっと…」と言って、日記帳を取り出してきました。
そして、昭和20年6月4日のところを開きますと、
こんなことが書いてあるのです>>>
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昭和20年6月4日の日記の内容です。
「夜中にふと眼が覚めた。
すると、部屋の障子がスーッと開いた、と思ったら、
暗闇の中に主人の顔がはっきりと浮かんだ。
そして、黙って部屋の中に入ってきた。
オヤと思っていると、間もなく部屋の外にスーッと消えて行った。
夢ではない、確かに見た」
そして、
「なかなか眠れないでいたら、隣の部屋の時計が2時を打った」とありました。
彼女は、復員兵の方に尋ねました。
「それは何時頃でしょうか?」
すると、
「時計は持っていませんので、よくは分かりませんが、
周囲や空の様子からして、大体2時ごろだったと思います」と言うのです。
和尚さんは、この話を女性から聞いて、大変感動されたそうです。
日本とニューギニア、この遠い遠い距離を超えて通じ合う夫婦の絆、
改めて、霊の存在を信じざるを得ないとの思いを強くしたそうです。
和尚さんは、この女性から、公報では昭和20年8月14日戦死となっているが、
この日を主人の命日にすべきかどうかを相談されました。
和尚さんは、はっきりと答えて差し上げました。
「ご主人の命日は、6月4日です」
女性は、深くうなずき、納得したそうです。
参考本:心に残るとっておきの話(潮文社編集部編)