私は美術大学の学生で、京都にスケッチ旅行に来ていました。
橋を前景にして、嵐山を描いていたところ、
一人の若い雲水が私の絵をのぞきこんで、話しかけてきました。
何だか気安い感じのお坊さんで、それとなく世間話などをしていました。
と、その時、小さな生き物が排水口のある絶壁を滑り落ち、
激しい鳴き声をあげて、流れに呑まれているのが目に入りました。
誰の目にも、この小さな生き物は、水に呑まれて沈んでいくかに見えました。
その時、ことの成り行きを見ていた坊さんが、
「あれは犬か、犬か」
と夢中で私に問うが早いか、川岸に駆け出して行きました。
その後の坊さんの行為と子犬の行動には、目を瞠るものがありました>>>
↓Facebookの続きは、こちらからどうぞ↓
坊さんは、子犬に向かって大きく手を振りながら、声を限りに叫んだのです。
「おおい、こっちだ、こっちだ」
すると、誰の目にも、この川幅を泳ぎ切って岸辺にたどり着くことなど、
とても思い及ばなかった子犬が、必死の力を振り絞って、
方角を変えて泳ぎ始めたのでした。
犬の耳には、天から降ってくる声が届いたのです。
子犬は、何とほとんど川の流れに直角に泳ぎ始めました。
子犬には、泳ぐ力が無かったのではなく、
どうしたらいいかという判断力がなかっただけなのでした。
坊さんは、犬かきの間中、
「おおい、こっちだ、こっちだ」と叫び続けました。
子犬は必死で泳ぎ抜きます。
そして、とうとう、岸にたどり着いて、濡れた体をぶるるんと振って、水滴を飛ばしました。
その時、子犬の表情は、恐怖から解き放たれて、歓喜に満ちていました。
文字通り、ちぎれるように尾を振って、
自分を、声の限り、呼ばわってくれた坊さんの周りを回りまわって離れようとしません。
この人が、自分を、生と死の崖淵から呼びもどしてくれた、
ということが子犬にはわかっているのです。
この時、私はこの雲水のように、なぜ犬を助ける行動に出なかったのか、考えてみました。
私には、どうしても犬が人間の言葉の意味を理解して、岸辺に向かって、
自分で力いっぱい泳いでくるとは思われなかったのです。
ですから、犬を助けるには、長い竿か、何かがなければダメだと思ったのです。
それほど、流れは急でした。
私には、この若い雲水が、犬が、人間と言葉を通じ合えるものと、
初めから信じきって、大きな声で呼んだことが大きな驚きでした。
誰かが生と死の淵に立っている時、いろんな余計なことを考えずに、
全力を尽くして、その人を生の方へ呼びもどして
助けるということが出来るでしょうか。
私は、この時、犬と人間との不思議な交流を、まのあたりにして驚くとともに、
利害も責任も伴わない、ただ「生」という一点に向かって絞られた行為、
その美しさを深く認識しました。
参考本:「心に残るとっておきの話」潮文社編集部