おばあちゃんは、昭和一桁生まれで、
家は山梨県甲府市で病院を開業していました。
おばあちゃんから聞いたお話です。
「私」という一人称は、おばあちゃんのことです。
小学校低学年の頃の仲良しは、五軒となりのみっちゃん。
みっちゃんの家は七人兄弟で、
いつも必ず弟の大ちゃんを背負っておりました。
もちろん、私と遊ぶ時も一緒です。
「みっちゃん、重くて大変だね」と言ったものの、
兄弟の少ない私は、よく面倒を見て可愛がる様子を、
うらやましくも思っていました。
ある日私は、病院に来る患者さんから
一握りの「コンペイトウ」をもらいました。
当時、甘いものは大変な貴重品でした。
私は、大事に自分の宝箱にしまい、
特別な時に一つずつ食べることにしました。
今日はみっちゃんと遊ぶ日です。
私は二粒だけ握りしめ、空き地に行きました。
一粒を自分の口に入れ、
もう一粒をみっちゃんに渡しました。
するとどうでしょう、あんなに小さいコンペイトウを、
みっちゃんは歯でさらに半分にカチ割り、
それを大ちゃんの口に入れてあげたのです。
「甘くておいし~い。本当にありがとう!」
そう言って喜んでいるみっちゃんに、
私はすまなく思いました。
「ごめんね、ほんとはまだたくさんあるの。
今度、もっと持ってくるね」
そう言って、その日、みっちゃんと別れました。
その翌々日のことです。
こんな狭い甲府盆地にも空襲がありました>>>
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「コンペイトウ、今度、もっと持ってくるね」
と言ってみっちゃんと別れた私でした。
でも、この時代に今度は訪れませんでした。
この地域への空襲。
地形が盆地のせいか、熱く逃げ場もなく、
それは悲惨でした。
それでも、私と家族は、命からがら助かりました。
空襲が終わり、町も落ち着いた数日後、
母が私に言いました。
「みっちゃんともう遊べないよ。
みっちゃん、空襲で死んじゃったんだよ。
でも神様っているんだね。
大ちゃんを抱え込むようにうつ伏せになっていてね、
その中の大ちゃんは生きていたんだよ」
それを聞いて私は、焼け跡の中のコンペイトウを探しました。
「みっちゃんに全部上げればよかった」
と泣きながら言いました。
その様子を見ていた母は、私に言いました。
「みっちゃん、いい子だったから、
神様がお星様にしてくれたよ。
だからもうコンペイトウ、たくさん持ってるよ」
戦争が終わり、平和になってからも、
みっちゃんの優しさと強さ、そして戦争の悲しさは、
あのコンペイトウを通して、
私(おばあちゃん)の心の中に生き続けました。
参考本:「あなたの涙そうそう」
TBS「あなたの涙そうそう」プロジェクト