忘れられないコンペイトウの思い出

a914
ばあちゃんは、昭和一桁生まれで、
家は山梨県甲府市で病院を開業していました。

おばあちゃんから聞いたお話です。

「私」という一人称は、おばあちゃんのことです。

小学校低学年の頃の仲良しは、五軒となりのみっちゃん。

みっちゃんの家は七人兄弟で、
いつも必ず弟の大ちゃんを背負っておりました。

もちろん、私と遊ぶ時も一緒です。

「みっちゃん、重くて大変だね」と言ったものの、
兄弟の少ない私は、よく面倒を見て可愛がる様子を、
うらやましくも思っていました。

ある日私は、病院に来る患者さんから
一握りの「コンペイトウ」をもらいました。

当時、甘いものは大変な貴重品でした。

私は、大事に自分の宝箱にしまい、
特別な時に一つずつ食べることにしました。

今日はみっちゃんと遊ぶ日です。

私は二粒だけ握りしめ、空き地に行きました。

一粒を自分の口に入れ、
もう一粒をみっちゃんに渡しました。

するとどうでしょう、あんなに小さいコンペイトウを、
みっちゃんは歯でさらに半分にカチ割り、
それを大ちゃんの口に入れてあげたのです。

「甘くておいし~い。本当にありがとう!」

そう言って喜んでいるみっちゃんに、
私はすまなく思いました。

「ごめんね、ほんとはまだたくさんあるの。
 今度、もっと持ってくるね」

そう言って、その日、みっちゃんと別れました。

その翌々日のことです。

こんな狭い甲府盆地にも空襲がありました>>>

スポンサーリンク

↓Facebookの続きは、こちらからどうぞ↓

ンペイトウ、今度、もっと持ってくるね」

と言ってみっちゃんと別れた私でした。

でも、この時代に今度は訪れませんでした。

この地域への空襲。

地形が盆地のせいか、熱く逃げ場もなく、
それは悲惨でした。

それでも、私と家族は、命からがら助かりました。

空襲が終わり、町も落ち着いた数日後、
母が私に言いました。

「みっちゃんともう遊べないよ。
 みっちゃん、空襲で死んじゃったんだよ。
 でも神様っているんだね。
 大ちゃんを抱え込むようにうつ伏せになっていてね、
 その中の大ちゃんは生きていたんだよ」

それを聞いて私は、焼け跡の中のコンペイトウを探しました。

「みっちゃんに全部上げればよかった」

と泣きながら言いました。

その様子を見ていた母は、私に言いました。

「みっちゃん、いい子だったから、
 神様がお星様にしてくれたよ。
 だからもうコンペイトウ、たくさん持ってるよ」

戦争が終わり、平和になってからも、
みっちゃんの優しさと強さ、そして戦争の悲しさは、
あのコンペイトウを通して、
私(おばあちゃん)の心の中に生き続けました。

参考本:「あなたの涙そうそう」
    TBS「あなたの涙そうそう」プロジェクト

スポンサーリンク