鬼の姑の目に涙させた良妻の鏡

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治天皇・皇后両陛下のお世話係(掌侍)として仕えた、
税所敦子(さいしょあつこ)という人のお話です。

この人は、明治天皇の信任がことのほか厚く、
人々は、彼女を明治の紫式部と讃えました。

また伊藤博文も、彼女とたびたび打ち合わせする機会がありましたが、
「あれほどえらい婦人に会ったのは初めてだ」と周りの人に話していたそうです。

この税所敦子さん、いったいどんな人だったのでしょう。

彼女は、28歳で夫と死別したあと、
夫の母の世話をするべく、鹿児島に下りました。

鹿児島には、姑のほか、亡夫と前妻との間にできた子供が二人、
さらには五人の子供を連れた弟夫婦が同居する大家族でした。

ことに姑は近所の人から「鬼婆」と、陰口されるほどの気性の荒い人で、
敦子に対してはことごとに意地悪く当たるのです。

しかし彼女はそれをじっと辛抱するばかりか、

「まだ自分のお世話が行き届かないからだ」

「自分に足りないところがあるからだ」と、自らに言い聞かせ、姑に仕えました。

酒好きな姑の食事は彼女自ら調理をし、また毎夜手洗いに行く姑のため、
一夜も欠かさずローソクを持って案内するなど、心を尽くして姑に仕えました。

当時の鹿児島は「よそ者」を嫌う気風が強いところでしたが、
孝養を尽くす彼女の姿に人々は皆、これを賞賛して止みませんでした。

そんなある日のことです。

外出先でどうへそを曲げたのか、憮然とした面持ちで家に帰った姑は、
彼女を呼び寄せ次のように言うのです。

「あんたは歌を作るのが上手だそうだな。
 今、この婆の前で一つ歌を作って見せてくれぬか」

「はい、いかような歌を作りますので」と、彼女は素直に応じました。

「それはな、この婆は、世間で鬼婆と言いますじゃ。
 それで、その鬼婆の意地の悪いところを正直に歌に詠んでくだされ」

しばらく熟考した後、敦子が短冊にしたためた歌。

その歌を見せられて、鬼婆の心が瞬時に溶けてしまいます>>>

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子が姑のことを詠んだ歌です。

仏にもまさる心を知らずして

鬼婆なりと人は言ふらん

短冊を手に取り、しばらく無言で見ていた姑は、ついに大粒の涙を流し、

「今日まで意地悪のし通しじゃった。それほどまでにねじれきったこのわしに、
《仏にもまさる》とは……本当にすまなかった。許しておくれ」
と手をついて、心から謝ったそうです。

歌人である彼女は次のような歌を作り、いつも自らを厳しく律していました。

朝夕のつらきつとめはみ仏の

人になれよの恵みなりけり

いかなる苦労があろうとも、それは「本当の人間になってくれよ」と、

働きかけてくださるみ仏の「お恵み」なのだという歌です。

いかなる苦難をも恵みと受け止めていくところに、
長年仏法に親しんでこられた彼女の素晴らしい智慧が光っています。

閉鎖的な時代といえども、世間はこのような人を、
埋もれさせることはなかったのです。

その後、彼女の貞節ぶりが、薩摩藩主父君、島津久光候の耳に入り、
登用されてその息女に10年間仕え、さらにずっと年を経て明治8年、
宮中に入り、明治天皇・皇后両陛下のお世話係として
お仕えすることになったのです。

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