<芸能レポーター、中西正男さんのブログより>
1999年10月5日。
大阪・フェスティバルホール。
50歳の誕生日を迎えた歌手・やしきたかじんさんは1つの区切りをつけようとしていた。
50歳でコンサートはやめる。
かねてから宣言していた節目のステージ。
それまでのたかじんさんのすべてを詰め込んだ内容だった。
デイリースポーツ入社1年目だった当時の取材ノート。
40分にわたる曲間の超長尺トークや、
床に顔がつくのではないかと思うほど
深々と客席に頭を下げて舞台を降りていく様子などを記したメモとともに、
走り書きの文字がある。
『話し出したら、絶対に笑わせる』
『歌、こわいほどうまい』
『最後は、必ず優しい』
駆け出しの記者が直感的に書きなぐったメモに過ぎないが、
その後、取材を続ければ続けるほど、
たかじんさんが愛される理由は、
結局、この3つに集約されるように思えてきた。
『やっぱ好きやねん』『東京』などの
ヒット曲を持つ人気歌手でありながら、
86年には「日本放送演芸大賞ホープ賞」を、
93年には「上方お笑い大賞審査員特別賞」を受賞。
前例のない、質の高い“二刀流”を実現させたこともさることながら、
見る者を魅了した最も大きな要因は、
3つ目の「最後は、必ず優しい」にあるように思う。
08年3月。20年以上にわたり放送してきたラジオ番組が突然終了し、
無期限の休養をしていたタレント・北野誠さんを復帰させたのは、
たかじんさんだった。
「いろいろな憶測を呼んだ誠さんの休養でしたが、
仕事復帰の場となったのが関西テレビ『たかじん胸いっぱい』。
実は、各局スタッフが『一番目立つ最初の起用を、どこがするのか』
と手をこまねいている中、自らの責任と度量で、
たかじんさんが番組に呼びました。
たかじんさんの男気と優しさが端的に表れた場面だったと言えると思います」
(関西を拠点に活動する放送作家)。
また、たかじんさんと親交の深かった
芸能リポーターの井上公造さんも、次のように話す。
「たかじんさんは、北野さんじゃなくても、
過去にトラブルを起こした、そのまんま東(現・東国原英夫)さん、
田代まさしさんらの謹慎明けにも、番組出演のチャンスを与えたんです。
さらに、総理の座を志半ばで辞めた安倍晋三さん(現・内閣総理大臣)に対して、
もう一度、夢を見ることをアドバイスしたのも、たかじんさんでした。
たかじんさんは『大きな失敗をしたヤツこそハートがある、それを潰したらアカン!』
と口癖のように言ってました」。
フリーアナウンサーとして活躍する宮根誠司さんも人生の恩人にたかじんさんを挙げ、
話したのが次の言葉だった>>>
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宮根誠司さんの話です。
「たかじんさんに教えてもらったことは、たくさんあります。
中でも、これは僕の“芯”みたいなものになってるんですけど
『なんで、放送のことON AIRというか分かるか?』と。
たかじんさんいわく『“AIR”というのは空気や。
スタジオの空気が全部そのまま出ていくもんやねん。
楽しむ時はオレらもホンマに楽しまな伝わらへんし、
怒る時はホンマに怒らなアカン』
と言われました」。
テレビに映っているところだけでなく、裏側の空気も画面から伝わる。
ごまかしはきかない。
その考えはスタッフにも、出演者にも、しっかりと浸透し、
たかじんさんが休養中もレギュラー番組を収録する際には、
必ず局内に“やしきたかじん様”と札を下げた楽屋が用意され、
弁当も運ばれ、楽屋前で頭を下げる出演者の姿もあった。
もちろん、楽屋の主が、姿を現すこともなければ、
弁当に手をつけることもない。
そして、あいさつに応える声もない。
それでも、たかじんさんと共に番組を作っているんだという空気は、
しっかりと“ON AIR”されていた。
そして、これからもきっと“ON AIR”されていくことだろう。
参考:中西正男(なかにし・まさお)さんのブログ「ご笑納ください」より
http://blog.goo.ne.jp/daily007