大阪府出身で、飛行学校卒の大石清伍長は、
昭和20年3月13日、14日の大阪大空襲で父を失い、
重病だった母も亡くしました。
肉親は、大石伍長の妹である静江さん、当時小学生。
兄が戦場に行き、妹は伯父の元に引き取られていました。
この時、兄17~18歳(推定年齢)、妹11歳です。
妹思いの兄は、給与のほとんどを妹に送金しており、
このような手紙をやりとりしたといいます。
静(せい)ちゃん、
お便りありがとう。何べんも何べんも読みました。
お送りしたお金、
こんなに喜んでもらえるとは、思いませんでした。神棚などに供えなくてもよいから、
必要なものは何でも買って、つかって下さい。兄ちゃんの給料はうんとありますし、
隊にいるとお金を使うこともありませんから、
これからも静ちゃんのサイフが空っぽにならない様、
毎月送ります。では元気で、
おじさん、おばさんに、よろしく。
それまで、鹿児島県の知覧のみが特別攻撃隊の飛行場でした。
しかし、戦況の悪化により、知覧の補助として作られた万世基地でも、
昭和20年3月29日から終戦まで、多くの飛行戦隊が、
一機、また一機と飛び立っていきました。
昭和20年5月20日、特攻隊出陣の命を受け、
大石清伍長が、万世基地に到着します。
次の遺書を整備担当であった大野沢威徳氏に預け、
出撃し、そして散華しました。
なつかしい静ちゃん!
おわかれの時がきました。兄ちゃんはいよいよ出げきします。
この手紙がとどくころは、沖なわの海に散っています。思いがけない父、母の死で、
幼い静ちゃんを、一人のこしていくのは、
とてもかなしいのですが、ゆるしてください。兄ちゃんのかたみとして
静ちゃんの名であずけていた
ゆうびん通帳とハンコ、これは静ちゃんが女学校に上がるときに
つかってください。時計と軍刀も送ります。
これも木下のおじさんにたのんで、
売ってお金にかえなさい。兄ちゃんのかたみなどより、
これからの静ちゃんの人生のほうが大じなのです。もうプロペラがまわっています。
さあ、出げきです。
では兄ちゃんは征きます。
泣くなよ静ちゃん。
がんばれ!
この遺書を預かった大野沢威徳氏も、
静ちゃんに宛てて、次のような手紙を添えています。
大石伍長の静ちゃんへの優しさが伝わります>>>
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大野沢さんの静ちゃんへの手紙です。
大石静恵ちゃん、
突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思います。わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。
伍長どのは今日、みごとに出げきされました。
そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。
おとどけいたします。
伍長どのは、静恵ちゃんのつくった人形を
大へん大事にしておられました。いつも、その小さな人形を飛行服の
背中に吊っておられました。ほかの飛行兵の人は、
みんな腰や落下傘の縛帯の胸にぶら下げているのですが、
伍長どのは、突入するときに、人形が怖がると可哀そう、
と言って、おんぶでもするように、背中に吊っておられました。飛行機にのるため走って行かれる時など、
その人形がゆらゆらとすがりつくようにゆれて、
うしろからでも一目で、あれが伍長どのと、すぐにわかりました。伍長どのは、いつも静恵ちゃんといっしょに居るつもりだったのでしょう。
同行二人。
仏さまのことばで、そう言います。苦しいときも、さびしいときも、
ひとりぽっちではない。いつも仏さまがそばにいて、はげましてくださる。
伍長どのの仏さまは、
きっと静恵ちゃんだったのでしょう。けれど今日からは伍長どのが、
静恵ちゃんの”仏さま”になって、
いつも見ていてくださることと信じます。伍長どのは勇かんに、
敵の空母に体当たりされました。静恵ちゃんも、りっぱな兄さんに負けないよう、
元気を出して勉強してください。さようなら。
最後に、幼い妹を一人残して逝く
大石伍長の悲痛な句が残されています。
「妹のことを伯父にたのみ、新宮駅にて訣別。
妹泣く。伯父夫婦も泣く。
せめてあと数日、
妹の傍に居りてやりたし」
終戦まで三ヵ月弱前です。
5月20日、大石清伍長は特別攻撃隊として出撃したのでした。
出典元:https://www.youtube.com/watch?v=nQ0AN524pF4