日本の歌を歌う老人がいました。
その老人が語りました。
そこには農業や、漁業で十分自給自足できる環境があり、
欲しいものは物々交換が行なわれていました。
そんな南の島にも70数年前、太平洋戦争のとき、
日本軍が進駐し陣地が作られました。
当時10歳前後だったその老人は、
村の若者達とともにその作業に参加しました。
島の人たちは、日本兵と親しく交わり、
日本の歌を一緒に歌ったりしたといいます。
「ギンギンギラギラ夕日が沈む、
ギンギンギラギラ陽が沈む……」
「もしもし亀よ亀さんよ…」
当時の日本の唱歌を今でもよく口ずさみ、
驚くことに、それが島の現在の子供達にまで伝承されているのです。
また老人は断片的ながら、
いまだに日本語を会話の中に交えながら話します。
なぜ、そのように日本の歌、日本語に馴染んだのかを
悲しい表情で老人は語りました。
陣地が作られて間もなく戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になったのです。
仲間達と話し合った島の若者たちは、
代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れました。
「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。
それを聞くなり隊長は、激高し叫んだといいます。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流しました…>>>
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島民は、船に乗って島を去るべく伝えられました。
別れのその日、日本兵は誰一人、浜に見送りに出てきませんでした。
村の若者達は、悄然と船に乗り込みました。
しかし、船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、
手を振って彼らを見送りました。
夕暮れの海に「ギンギンギラギラ夕日が沈む・・・」
の歌声が流れたといいます。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、少年も若者たちも悟ったといいます。
自分たちを侮辱するあの言葉は、
自分達を救うためのものだったのだと・・・。
老人が日本の兵隊さんのことを思い出しながら、つぶやきました。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
この島には、日本の唱歌や日本の言葉が残っただけではありません。
兵隊さんから教えてもらった、
芋の作付け方法などまで伝承されていました。
兵隊さんたちからの教訓も、その老人の中に残っていました。
「うそをついてはいけない。約束は守ろう」
兵隊さんから教えてもらったその言葉を、
老人は今も忘れていませんでした。
パラオ諸島の、あるひとつの小さな島でのエピソードでした。