旧東ドイツのポーランド国境近くに、
リーツェン(Wriezen)という小さな町があります。
このリーツェン市の名誉市民に、日本人医師「肥沼信次」という名があります。
広場の墓地には、1メートルの人目を引く大理石の墓石があり、
そこに肥沼さんが眠っています。
この市には、肥沼通りという名前の通りがあり、春には並木の桜が咲き誇るそうです。
また地元の教科書にも肥沼さんのことが取り上げられており、
リーツェンの多くの人の心の中に、日本人・肥沼医師が生きています。
この肥沼医師、この地でどのような功績を残したのでしょうか?
時は、第二次世界大戦終結後です。
ドイツでは最悪の衛生環境のため、伝染病が蔓延していました。
貧困と不衛生の中、チフスが大流行して、
毎日多くの人がバタバタと死んで行きました。
ドイツ人の医師は、すべて戦争に駆り出されていたので、ほとんど無医村状態。
あまりの発疹チフスの蔓延ぶりに、近隣の都市の医師は
伝染病に感染するのを恐れて診察に来ませんでした。
そこにやってきたのが肥沼医師です。
この地での肥沼医師の死闘が始まりました。
この国境沿いには、ポーランドから退去させられた
大量のドイツ難民が400万人流れ込んできていました。
リーツェンの近郊には難民収容所が緊急に作られ、
大勢の病人が収容されていました。
そこは地獄と化していたのです。
人々はそこでただ虫のように横たわり、
苦痛ととシラミに苛まれて助けを求めていました。
肥沼医師の戦いには、鬼気迫るものがあったそうです。
なぜ日本人が、これほどまでに外地で献身的な働きをするのか、
当時の看護婦(看護師)が証言しています>>>
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「肥沼先生は、まるで勇敢な兵士のように入っていき、
身の危険も全く顧みず、もっとも酷い症状の患者に
持ってきた貴重な薬をせっせと与え、
また次々に患者を見て回るんです。
こんな無私無欲の行いを目の当たりにして、
気が遠くなるような感動に打たれました」
さらに肥沼医師は、たった一人の患者のために
雪の中を一人で往診に出かけ、診察料のことを口にしませんでした。
「金銭のことを口にするのは下品である」
という日本人らしい倫理観を通していたのです。
そして、
「また一つの小さな命が救われた、よかった」
治療の効果が出て患者が回復するたびに、
肥沼医師はこのようにつぶやいたそうです。
精力的に患者の間を歩き回っていた肥沼医師自身が
発疹チフスに倒れたのは、死の二か月前のことでした。
彼は発疹チフスにかかると自室に閉じこもり、
看護婦(看護師)たちに患者の治療を指示し、
誰にも彼が発疹チフスに罹ったことを知らせませんでした。
また彼はチフスの治療薬や注射を自分自身で使うことを拒否しました。
「クスリは他の人に使ってくれ」
と看護婦たちを励まし、1946年3月8日に亡くなったのです。
冷戦の東ドイツ時代は秘密警察の問題もあり、
肥沼医師のことを公に賞賛することは出来ませんでした。
そのため、日本国内においても、肥沼医師の偉業は長い間、
人に知られずにいました。
その間も、肥沼医師の墓は、病院関係者や市民によって、
ずっと大切にひっそりと守られていたのです。