昨日、6月29日のゲームで、
セ・リーグ首位・広島が32年ぶりの11連勝をマークしました。
快進撃です。
昨日投げたのは、もはや中年の星、41歳の黒田博樹投手でした。
黒田投手は、あと1勝で日米通算200勝の達成となります。
その黒田投手は、昨年の冬、
米大リーグでの活躍に自ら区切りを設け、
8年ぶりの帰国、広島への復帰を表明しました。
その時の記事がありますので、読んでいただければ幸いです。
昨年の記事ですから、年齢40歳とありますが、
現在は41歳です。
【黒田博樹選手、オヤジの入り口で、カッコいい復帰】
黒田博樹選手。2月10日の誕生日で40歳になります。
米大リーグ、ドジャースで4年間、ヤンキースで3年間、
先発投手として活躍してきました。
まだまだメジャーで通用するどころか、
来シーズンも大型契約をオファーする球団がありました。
推定オファー額、1800万ドルといいますから、20億円以上です。
こんな申し出を蹴って、
黒田選手、8年ぶりとなる広島への復帰を決意しました。
黒田選手はこう語っています。
「野球人として、沢山の時間を熟考に使いました。
悩み抜いた末、野球人生の最後の決断として、
プロ野球人生をスタートさせたカープで、
もう一度プレーさせていただくことを決めました」
ラブコールを送り続けてきた鈴木球団本部長ですら、
「嬉しいを通り越して、怖い感じ」と述べています。
昨年、広島はいい戦いを繰り広げましたし、カープ女子の出現など、
「熱い!」感じが伝わって来ます。
黒田投手の加入でさらに、広島は湧き上がることでしょう。
さて、黒田投手の話に戻ります。
黒田選手も、決して恵まれた位置から野球人生がスタートしたわけではありません。
高校時代は、三番手投手で、
公式戦での登板機会はほとんど無いような選手でした。
たまに練習試合に、投げれば打たれる日々。
グラウンドの草むしりを命じられたり、ただひたすら走り込みを命じられたり、
とても選ばれた野球エリートではなかったのです。
頭角を現すようになったのは、専修大学へ進んでからでした。
高校時代の走り込みが黒田投手の土台を作り、
安定した制球力と速球(当時の最速150キロ)という強みに結実したのです。
身を結ぶまで時間のかかった、やや遅咲きの実力派投手です。
話をグーッと飛ばして、2012年、
ドジャースからヤンキースに移籍した時のことです。
シーズン序盤は、なかなか勝てず、ファンからもメディアからも、
辛辣な言葉を浴びせられる日々が続きます。
アメリカのファンは、ナイスプレーには、惜しみない拍手を送りますが、
その逆にNGのプレーヤーに対しては、容赦ないブーイングが飛びます。
特にニューヨークのファンはその度合いも強いようです。
胸ふくらませた新天地で、思わぬ冷や水を浴び、
黒田投手はすっかり滅入ってました。
そんな時、メンタルトレーナーから、あるアドバイスをもらいました。
NBAのスター選手だったマイケル・ジョーダンの言葉です。
その言葉が決め手だったのかどうか、黒田投手、
そこから尻あがりに調子を上げて、16勝をマークしました。
その言葉とは>>>
↓Facebookの続きは、こちらからどうぞ↓
メンタルトレーナーが黒田投手に与えた言葉です。
「常にこれが最後のゲームだと思ってプレーすることだ」
マイケル・ジョーダンの言葉でした。
黒田投手は、複数年契約のオファーに対して、
単年度契約で臨み続けてきました。
その契約の仕方も「これが最後」との決意を物語っているのかもしれません。
確かにこのようなことを語っています。
「複数年契約はありがたいけれど、それで自分の辞め時を見失いたくない。
限界を感じたらいつでもユニフォームを脱げるように」
さらに広島への復帰を決意した時、
「日本へ帰るなら、広島以外には考えられない」と公言しました。
金の大きさで動くより、恩義をお返しすることに力を注ぎたい。
多くの人が黒田投手の広島愛というか、
広島への義侠心に対し、日本的な男らしさを感じました。
おっちゃんが、広島の人、カープおやじだったら、泣きますね。