二度の流産を経験している母親は、
三人目の俺を何とか薬で止めて、やっとの思いで出産した。
昭和51年のことだ。
玉のように育てられたらしく、祖母や親戚の話によると、
紙おむつではなく、布製の高級品で、
おならをしただけでオムツを取り替えていたとか。
しかし、元々病弱だった俺は1歳半の頃、
風邪をこじらせ肺炎になった。
町医者では話にならなかったようで、
隣町の総合病院を紹介してもらった。
一通り診察をしてもらい、告げられた結果が、
「ダメな確率70%!」
だったそうだ。
父も母も目の前が真っ暗になったと後年話している。
実家には、いまだに当時の病室での写真やビデオが
たくさん残っていて、自分の記憶以前の映像写真を
いくつも垣間見ることができた。
両手両足にかわるがわるに点滴をされ、
副作用でぷっくり顔が腫れあがっている俺自身がいた。
この年になってもあの映像は痛々しかった。
当時まだ50代だった祖母は、本当にどうやったら
俺を目に入れられるか本気で悩むくらいに、溺愛してくれたそうだ。
その、ほかでもない祖母が病院に駆けつけて来た時には、
ことの顛末を聞き、冗談抜きで気絶したとか。
状況は予断を許さなかったらしい。
かなり重度の肺炎で片肺が駄目になってしまった。
よく耐えたなと、今の自分は思うが、
俺の胸には、でかい手術痕があり、肺は一つしかない。
俺は神とか仏とかは信じていない。
だけど唯一、信じていることがある>>>
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俺は神とか仏とかは信じていない。
だが、今の俺があるのは、
あの時、祖母が真冬の2月、身も凍るような寒空の下、
神社でお百度参りをしてくれたからだ。
そのことだけは信じている。
祖母は本気で、
「私の命はいらない。だから孫を助けてください」
一往復ごとに刺さるような冷たい水をかぶり、
神に祈ってくれたからだと思う。
そのことを信じずに、何を信じろというのか。
そんな祖母も、もうはや90歳を超えた。
ばあちゃん、本当にありがとう。
おかげさまで結婚もして、二人の子供に恵まれて、
今ある幸せはすべて貴方のおかげです。
「ひ孫の次は玄孫の顔も見るぞ!」
しわだらけの顔をさらにクチャクチャにして言っています。