「右胸にありがとう そして さようなら」生稲晃子さん

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ニャン子クラブという人気グループがありました。

そのグループ出身の生稲晃子さん。

タレントとしてテレビや舞台で活躍中ですが、
がんとの闘病体験があります。

乳がん闘病を綴った「右胸にありがとう そして さようなら」
という本も著わしています。

その生稲さんの談話からピックアップしました。

五年前に受けた人間ドックで、
右胸に8ミリの悪性腫瘍があることがわかりました。

私は元気だけが取り柄だったので、
その宣告はまさに青天の霹靂。ショックでした。

ただ、早期のがんなので、
腫瘍を切除して治療を続ければ治ると思い、
手術後は当然、元気になっていくと信じていました。

ところが……。

一年三カ月後に再発。

そして、さらに一年後に再々発。

「次に再発したら、今度こそ命の保証はない」
と医師に告げられ、右の乳房を全摘することとなったのです。

乳房を失うというのは、耐え難いことでした。

それまでの私なら到底、
この絶望の淵から立ち上がることはできなかった。

それができたのは、当時七歳だった娘の存在です。

主治医の先生に
「娘さんが成人するまでは、
 お母さんが死ぬわけにはいかないでしょう」
と言われ、その通りだと思ったのです。

闘病中、娘は不安そうな様子を一切見せなかったので、
「強い子だな」と思っていたのですが、実は違った。

あるとき、私が
「もうダメかな、死んじゃうかも」
と弱音を吐いたんです。

そのとき娘は>>>

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のとき娘は、
「その話はしないで!」と。

娘は不安を抱えながらも、
それを見せずに日々過ごしていたんですね。

また二回目の再発のとき、
日帰り入院で手術を行った夜、
夫に髪の毛を洗ってもらいました。

そのとき娘が私の体をずっと支えていてくれた。

そしてこう言いました。

「自分にできることは何でもするよ、ママ」

母として娘を支えてきたつもりが、
私の方が娘に支えられ、守られていたんです。

私は三十一歳のとき、母を亡くしています。

年齢的には大人でしたが、それでもまだまだ母に聞きたいこと、
教えてもらいたいことがたくさんありました。

それを考えても、この娘を置いていくわけにはいかない。

「何としても生きなければ!」
と思ったのです。

さらに闘病するうえで大きな支えになったのが、
娘と夫が”普通”にしていてくれたことです。

実は二人から「大丈夫?」とか、
「つらいよね、何もしなくていいよ」
といった優しい言葉をかけられたことは、ほとんどないんです。

正直、「なぐさめてよ」と思った時期もありました。

でも、実際に言われていたら、
逆に心がポキッと折れてしまっていたかもしれません。

あぁ、やっぱり自分は不運に見舞われているんだ、
とあらためて感じてしまって。

後で知ったのですが、
夫は努めて平常心を保とうとしていたそうです。

自分までおろおろしていたら、がんにはとても勝てない。
だから、これまでと同じように生活しようと。

そのおかげで私は、朝になれば娘を起こして学校に送り出し、
洗濯をし、ご飯をつくり、娘の宿題を見、
夜遅くに帰ってくる夫を迎え…と毎日忙しく、
落ち込んでいる暇がありませんでした。

そうやってやるべきことを淡々とこなし、
一日の終わりに「今日も無事に過ごせた」と安堵する。

そしてまた、新しい一日を迎える。

その繰り返しで、
今日まで元気に過ごすことができたのです。

病気になってあらためて感じたのは、
生きていることは奇跡であるということ。

そして普通に過ごすことが、
実はすごく難しいことであるということ。

だからこそ、”普通”を保ち、一日一日を大切に生きる。

それこそが苦難に負けず、
前を向いて歩いていくための最良の生き方なのかもしれない、
と思っているんです。

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