総裁選に何度も立候補した、自民党のちょっとクセのある政治家です。
その父、石破二郎氏は官僚出身の政治家でした。
石破二郎氏は、官僚時代の接触で田中角栄氏と親しい仲になりました。
その石破二郎氏と田中角栄氏のお話しです。(以下、敬称略)
1958年、石破は地元の鳥取県知事選に出馬して当選。
このとき角栄は、石破の娘たちとともに、
ラジオにかじりついて当落を「聞き届けた」という逸話が残っています。
石破は知事を4期つとめたところで、
当時総理大臣だった田中角栄に請われ、
1974年の参院選に出馬、当選します。
1980年に再選を果たし、自治大臣、国家公務委員長に就任したものの、
ガンが発覚。
石破は信頼する角栄に辞表を預けたうえで、手術に臨みました。
翌年、容態がいよいよ悪化した石破は家族に伝えました。
「田中が見舞いに来てくれた夢を見た。
嬉しかった……」
息子の茂は目白に電話を入れました。
父の「最後の願い」を思い切って頼んでみることにしたのです。
かつて、茂はロッキード事件で逮捕された角栄を批判していました。
しかし、父の二郎は茂に言いました。
「田中に会ったこともないのに、本当のことが分かるのか。
田中はもらってない、というのだからもらってないんだ。
いいか、おまえに言っておく。
人を信じるというのは、そういうことだ」
角栄への電話は、父と角栄の間には
深い信頼関係があると信じての「賭け」でした。
軽井沢にいた角栄に電話がつながりました>>>
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「どうか、最後に父に会っていただけないでしょうか」
角栄は迷いなく答えました。
「分かった。必ず行きます」
1週間後、角栄が石破の入院する鳥取の病院に現れました。
「あんたに会えて、もう思い残すことはない。
ただひとつだけ頼みごとがある。
俺が死んだら葬儀委員長をやってくれ」
角栄は語りかけました。
「何を言ってる。必ず元気になる。
……分かった。約束する」
角栄は、当時の鳥取県知事に電話しました。
「残念ながら、石破君の容態が良くない。
葬儀になれば彼の業績からして県民葬になるだろう。
その場合は、私が委員長になることはできないので、
君に頼みたい」
2週間後、石破二郎は73年の生涯を閉じました。
県民葬には田中派の議員全員が訪れ、冥福を祈りました。
数日後、石破茂が目白の私邸にお礼にやってきました。
角栄が尋ねました。
「県民葬には何人来た?」
「3500人です」
「よし、青山葬儀場でやる。
3500人より多く集める。
これは彼との約束だからな」
角栄は葬儀委員長として、本当に3500人以上の弔問客を集め、
その「約束」を果たしました。
その後、政界を志した石破茂は、田中派の事務局に勤務し、
「雑巾がけ」をこなした後、1986年の衆院選に出馬。
初当選を飾っています。
参考本:田中角栄「心を打つ話」 別冊宝島(宝島社)