そのために、私は旧姓に戻った母親と
その祖父・祖母、それに私の兄の5人で暮らしてきました。
旧軍人の祖父と祖母は商売をしています。
母もその手伝いで、私と兄を育ててくれました。
おかげで、私も兄もともに無事成長し、
兄が自衛官、私は大学生になっていました。
2011年3月のこと、
あの東日本大震災に兄が災害出動することになりました。
出動前に、兄は自宅に戻ってきました。
そして、祖父・祖母・母と私の5人が揃って
食事をすることができました。
兄はいつもの調子で冗談を飛ばし、
直接の被害が無かったとはいえ、
沈んでいた私たちを笑わせてくれました。
しかし、深夜になり私と祖父を呼んだ兄の表情は、
やや青白く、緊張気味に見えました。
そしてこう切り出したのです。
「今回の出動では、地震津波被害の他にも、
深刻な事態が待ちかねている。
それは、原発事故に対する処理と周辺住民の救済だ。
自分としては、無事に戻って帰れる可能性は低いと思ってる。
いや、無事に帰ろうなどと思っては救済活動など出来ない。
どうか、自分がいなくなった後は、
おばあちゃん、お母さんのことを宜しくお願いします」
祖父と私に、こんな遺言めいたことを残したのです。
私は呆然たる思いでしたが、祖父はそんな兄の言葉を
粛々と受けとめました。
改めて兄に向き直り、祖父は旧軍人らしく、
こんな言葉を兄に告げました>>>
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「国家危急の時だ。〇〇家嫡男として、国家のために尽くし、
しかしながら、決して生還をあきらめてはならない。
私たち家族のことは心配いらない。
だから生還をあきらめることなく、戦ってきなさい」
翌朝、まだ日が明けぬうちに私たちは、兄を見送りました。
祖父と兄は、互いに敬礼し、
昨夜の兄の「遺言」のこともあって、
否が応にも非常事態ということを認識させられました。
その後、兄が出発してからは、確かな情報を得るために、
テレビなどの報道は逃さぬよう見聞きしていました。
私の心はかき乱されていました。
やがて兄の無事が確認でき、
一連の活動を終えて、我が家に兄が戻ってきたのです。
戻ってきた兄に、私は無我夢中で抱きつきました。
声を出して泣きました。
さすがの祖父は、うんうんと頷きながら兄の無事を喜び、
感謝の祈りを捧げるかのように、瞑目して天を仰いでいました。
これまで、詳しい事情を聞かされていなかった祖母と母は、
きょとんとした表情で、私たち家族の男の様子を眺めていました。
参考:2ちゃんねる掲示板より