トルコの方の日本人への恩返しのお話として、
何度かテレビでも放送されていますので、ご存じの方も多いと思います。
それでも、いつまでも心に残しておきたいお話ですので、
ここに記しておきたいと思います。
1985年3月、イラン・イラク戦争は戦闘が激化。
イラクのサダム・フセインは、今から40時間後に、
イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とすと宣言しました。
当時、イランには多くの日本人が滞在しており、
誰もが急いでテヘラン空港に向かいました。
しかし、どの飛行機も満席。
世界の国々は、自国民を救出するために特別機を飛ばしますが、
日本政府は素早い決定ができずにいました。
救援機を出すこともできず、日本人の中にはパニックに陥る人も多かったといいます。
そこに1機の飛行機が到着します。
そして、取り残された日本人216人を搭乗させると、
成田に向かって飛び立ったのです。
それはサダム・フセインが示したタイムリミットのほんの1時間15分前でした。
ただ、それは自衛隊の救援機でもなければ日本の航空機でもなく、
日本から遠く離れた国、トルコ航空の飛行機でした。
しかしその時点では、トルコの飛行機がなぜ日本人を救出してくれたのか、
その理由について、日本政府もマスコミもわかりませんでした。
トルコ政府の日本人に対する大きなはからいには、こんな理由があったのです>>>
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時を遡ること約120年、1890年9月16日のことです。
オスマン帝国(現トルコ)から日本に派遣された特派使節が無事任務を終え、
巡洋艦・エルトゥールル号で帰国の途についていました。
しかし、その日は朝から天候が悪く、
和歌山県の熊野灘に差し掛かった時には、海は大荒れ。
木造であったエルトゥールル号は、
舵の自由が利かなくなり、岩礁に乗り上げ沈没してしまったのです。
その時、自分たちの命の危険も顧みず船員たちの救出に向かい、
献身的な介護を行ったのは、旧大嶋村樫野(現・和歌山県串本町)の住民たちでした。
609人の乗組員のうち、救助できたのは69人だけでしたが、
トルコの人々は彼らに、そして日本に深く感謝したのです。
トルコ航空の飛行機が、なぜ日本人を救出したのか。
元駐日大使は、こう語ったといいます。
『エルトゥールル号が遭難したときの、
日本の人々がしてくれた献身的な救助活動を、
今もトルコ人は忘れていません。
私も小学校のころに歴史の教科書で学びました。
今の日本人は忘れてしまったかもしれませんが、
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の出来事を知っています。
それで、テヘランで困っている日本人を助けるため、トルコの飛行機が飛んだのです』