私は一歳余の長女を背中に家を飛び出しました。
「もうあんな主人と別れてやる!」
心の中で叫びながら、凍てた道をを走りました。
道路脇でタクシーを待ちます。
その頃のこのあたりは、未だ商店も民家も少なく、
真っ暗な向こうには田畑が広がっていました。
やっと来たタクシーに「○○○まで」と、
ぶっきらぼうに言いながら乗る私に、
「お元気だったで?どしたん、こんな遅うに……」
いきなりそう言われて驚きました。
濃い眉、涼しい目元、温和な笑顔に見覚えがありました。
私が娘の頃、勤務先でよく利用したタクシーの人でした。
状況から話さないわけにもいかず、
夫婦喧嘩をして、とりあえず今夜は
叔母の家に行くところだと話してしまいました。
運転手さんが聞きました。
「今から行く家は、お宅の身内?それともご主人の?」
私は、怪訝ながらその質問に答えました。
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「私の父の妹に当たるんです」
そしたら運転手さんはこう言いました。
「そんなら行かれん!ご主人の身内へ行きよ。
そうせんと話がこじれてしまうからな」
「今からでも機嫌なおして帰れんで?
ご主人さん心配しよるでよ」
しみじみとした人情の溢れる言葉に、
張りつめていた心が緩み、ドッと涙が流れてきました。
背中の長女はスヤスヤと眠っています。
運転手さんの言われるままに、主人の妹宅へと向かいました。
深夜の客を、いやな顔もしないで迎えてくれた妹夫婦。
私が玄関に入るのを見届けると、
タクシーは去って行きました。
一時間もしないうちに、主人が車を飛ばしてきました。
何のことはありません。
これで夫婦喧嘩は幕を閉じました。
翌日、主人の妹から電話がありました。
タクシーの運転手さんが、車内に忘れた傘と娘のブーツを
届けてくれたというのです。
そして、私に”よろしく”との伝言までありました。
何という親切な方なのでしょう。
早速勤務先へ電話を入れて、深くお礼を述べました。
年を経てなおも、あの運転手さんへの感謝の気持がふくらみます。
たとえ一時にしろ、母や兄を悲しませることもなく、
主人に肩身の狭い思いもさせずにすみました。
その分、主人の妹には多大な迷惑をかけてしまいましたが、
迷走していた夫婦喧嘩は、運転手さんのおかげで、
安全な場所へ漂着できたのでした。
あの時、背中で眠りこけていた娘は、今年成人を迎え、
次女は高校三年生になります。
あれだけの劇を演じた、あの時の夫婦喧嘩は、
いったい何が原因だったのか、まったく思い出せません。
参考本:「心にしみるいい話」全国新聞連合シニアライフ協議会編
「親切な運転手さん」を下敷きにしています。