その講演などは、「心の教育」「人づくり研修」として、
学校、医療・介護・福祉団体、企業で開催されています。
いのちの教育、子育て、人権、いじめ自殺防止、患者家族の思い、
モチベーション、人間力、使命感などをテーマに、
全国で20万人の方が参加されています。
代表の鈴木中人さんは、愛娘を亡くされ、
それが活動の契機となりました。
そのときのことを綴った鈴木さんの文章です。
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景子が発病したのは平成4年、
3歳のときでした。
少し前から、外を歩くとすぐに
「えらい(疲れた)」と言って
座り込んでしまうので、
妻の淳子は近くの診療所に景子を連れて行きました。
「景子ちゃんのおなかに
腫瘍があると言われた……」
突然、会社にかかってきた
淳子からの電話に我が耳を疑いました。
淳子は泣いています。
翌日、総合病院で精密検査を受けた結果
小児がんであることが判明。
病名を聞いたときは
淳子も私もひと言も発することが
できませんでした。
なんで俺たちがこんな目に遭うんだ
なんで景子ちゃんが……
入院の前の晩、
景子に入院することを話します。
たったひと言、
「康ちゃんは?」と聞きました
自分が大変な運命の中で
離れ離れになる弟・康平のことを
心配するのです。
家族が一緒に暮らす…
当たり前だと思っていました。
でも、その当たり前のことがどんなに素晴らしいか、
初めて気づいたのです。
そして、景子の寝顔に
「どうか病気が治りますように」
と心から手を合わせました。
大学病院に入院、手術、そして抗がん剤治療が続きます。
経過は順調で、治療終了の2年が近づいてきました。
ところが、最後に念のため撮影した
脳の写真に病巣が見つかったのです。
さらに骨への転移も判明し、
あと数か月との余命宣告を受けました。
病状は悪化の一途を辿りました。
「痛いよう、えらい(辛い)よう、
怖いよう……」
ベッドの景子は、荒い息とともに、
救いを求めるように私を見つめて
大きな涙を流しました。
子供が死んでいく姿、…見えるのです。
体中に黄疸が広がり、白目が黄色になる。
血の混じった尿、痰はどす黒く、
肌の色は次第に紫色になっていく。
でも何もすることがないのです。
平成7年7月5日、
景子は僅か6歳で旅立ちました。
殺した……
病気を見つけられなかった。
治せなかった。
自分を強く責める思いが溢れました。
病院を出るときに淳子が言うのです。
「景子ちゃんの体が冷たい。
カゼひくといけないから
タオルケットかけて」と
タオルケットをかけると
「景子、寒くないか?おうち帰ろうね」
とずっと景子を抱き続けています
その姿に、淳子が一番辛いんだと感じました……。
景子との死別後、5年ほどたったある日、
たまたま読んだ本の一文が目に入りました。
(鈴木さんは、その一文で立ち上がることができました)
その一文とは…>>>
↓Facebookの続きは、こちらからどうぞ↓
本の一文です。
「子供の供養とは
親が生まれ変わること。
子供の分まで生きること」
その瞬間、涙が溢れました。
自分は何も変わっていない。
景子ちゃん、ごめん……
しかし、どう変われば、何をすればよいのかは
まったく分からないのです。
それを求めるようになりました。
不思議なことに、求めるものが変わると
気づきや出逢いが変わります。
私よりもっと辛い涙を流す人たち
志の実践をする人……
ある日、小さな講演会に誘われました。
講師は、映画『おくりびと』のモデルでもある作家、
青木新門さんでした。
私が子供を亡くしたことを話すと
青木さんはこんな詩を教えて下さったのです。
「人は必ず死ぬから
いのちのバトンタッチがあるのです。
死に臨んで先往く人が
『ありがとう』と言えば
残る人が『ありがとう』と応える
そんな一瞬のバトンタッチがあるのです
死から目をそむけている人は
見そこなうかもしれないが
そんないのちのバトンタッチがあるのです」
あっ、このことだ!
景子がいのちのバトンを託してくれている。
生き抜くこと、支え合うこと、感謝することの尊さを
今度は私が他の方々にバトンタッチしなければ……
そして、自分の体験を語る「いのちの授業」を
ボランティアで始めたのです。
私が体験してきたことは
あらかじめ意図したものではありません。
もがきながら生きる・働くことが
積み重なって、そのおかげで今の自分があります。
人生の前進とは、転んで、起きて
歩む中で人生のテーマを見つけていく。
その人生のテーマに向かって
転んで、起きて、歩んでいくこと、
…そう思うのです。
引用:致知2012年3月号「常に前進」