障がいを負った息子に今、必要なこととは?

b227
から十数年前のある日。

ある集会に参加していた私は緊急の呼び出しを受けました。

とっさに感じた不安は的中し、
息子が事故に遭ったとの知らせでした。

病院へ駆けつけ、目にした息子の左手は包帯が筒状に巻かれて、
短くなっており、すべてを悟りました。

家畜のえさを切るカッターに草を入れ、
左手を巻き込まれたとのこと。

応急処置を受け、わずかな望みをかけて、
医大へと救急車で転送してもらい、手術を受けました。

結果は切断面が複雑なこと、細かすぎることなどの理由で、
接合は不可能となり、単なる縫合手術に終わりました。

わずかな可能性にかけていた一縷の望みも絶たれ、
絶望の淵に落とされた思いでした。

つい先日まで積木で遊んでいた小さな手を思うと、
涙にくれました。

何とかならないか、精巧な義手はないかと、
遠くの病院まで連れて行くこともたびたびでした。

そんな中で、あるリハビリテーション付属病院のN先生の言葉は、
私に強い刺激を与えてくれました。

息子の診察をしながら、私たち親子の様子をご覧になり、
一抹の不安を抱いて下さったようです。

別室で子供を遊ばせながら、今まで診て来られた患者さんのことを、
具体的な例を挙げてお話し下さいました。

病気により、切断しなければ命の保証が無かった人、
先天的に障がいがあった人など、
今の自分より厳しい現実と闘っている人が
いかにたくさんいるかということを。

そして、先生は、ある重要なことを最後に話してくださいました。

今、精巧な義手を、最高の技術を駆使して作ることは、
お金さえかければ、それほど難しいことではないとのこと。

しかし…と先生は言葉を続けました>>>

スポンサーリンク

↓Facebookの続きは、こちらからどうぞ↓

、精巧な義手を、最高の技術を駆使して作ることは、
お金さえかければ、それほど難しいことではない。

しかし、果たして今の息子にそれが本当に必要なことか、
よく考えてみるようにと言われたのです。

最高の義手を作る前に、不幸にして障がいを持ってしまった息子を、
どんな人間に育てるかが、今問題ではなかろうかと、
優しく諭して下さったのです。

ハッと目が覚める思いでした。

自分の罪の意識から、少しでも精巧な義手を作ってやれば、
償いができると、心のどこかにあったのかもしれません。

N先生の指摘はまさにその通りでした。

二歳九か月のこの息子を障がいに負けず、強く生き、
豊かな人間性に育てることが、今一番大切なのだと、痛感しました。

ちょうどその頃、新聞に全盲の中学生が弁論大会で優勝し、
その要旨が掲載されました。

自分が目の不自由なハンディに負けそうになった時、
母親の育児日誌を耳にする機会があり、
いかに苦労して育ててくれたかが分かり、
強く生きなければと決意を新たにした、との内容でした。

しばらくしてその母親の日記が、
『ママの目をあげたい』と題されて連載され始め、
毎日、涙で濡らしながら読ませていただきました。

その後も成人した折、学校を卒業された折と、
何度か読者の声の欄でもお目にかかり、
「ああ、頑張っていらっしゃるなあ」と励まされる思いでした。

今、わが子は中学生になり、母親の私を越え、
元気に学校生活を送っています。

振り返ってみますと、この二つの出会いは、
迷路で出会った道標のように、心に深く残っています。

参考本:心にしみるいい話
(全国新聞連合シニアライフ協議会編)
引用:「迷路で出合った道標」

スポンサーリンク