【最期の時まで笑う】 ~フリーアナウンサー町 亞聖さんの手記~

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の言うことだけ聞いていればいい」

典型的な九州男児で亭主関白だった父。

お酒を飲んでは理由なく怒り、
ちゃぶ台をひっくり返していた。

そんな父が大嫌いで、中学の頃から反発していた私は、
高校を卒業したら家を出ることを決めていた。

その矢先に、母が、くも膜下出血で倒れ、
重度の障がい者に。

厳格な父を中心に回っていた我が家の生活が
一変することになる。

ちょうど受験を控えていた私は一浪し、
幼い弟と妹の母親代わりをしなければならなくなった。

吞んだくれの父親に障がい者の母親。

道を踏み外してもおかしくない状況だった。

でも、振り向けば不安そうな目をした弟妹がいた。

ここで私が全てを投げ出してしまったら、
この二人を路頭に迷わすことになる。

誰かのせいにするのは簡単だが、
それで自分の人生を台無しにしていいのかと自問自答した。

答えは”そんなの嫌だ。自分の人生は自分で決める”だった。

そして、”人生を諦めない”ということを二人に伝えたかった。

共働きでようやく生活出来ていた我が家の経済状況は、
母の入院でどん底に落ちた。

通帳を開いて驚いたのは、預金がゼロだったこと。

厳しい家計のやりくりに母の介護。

とにかく置かれた状況を受け入れるしかなかった。

そんな私を救ってくれたのは、車イスの生活になった母だった。

右半身麻痺と言語障害、自暴自棄になっても仕方がないはずなのに、
母は暗く落ち込んだ姿を一度も見せることはなかった。

一番辛くて悔しいはずなのに……。

倒れる前から、母は小さいことにこだわらない大らかな性格だった。

父に反抗して夜遅く帰るなど、私が困らせることをしても
いつも「仕方がないな」と受け止めてくれていた。

その大らかさに、より磨きがかかっていた。

悪い意味で変わらないのは父も同じで、家のことは何もせず、
相変わらずお酒を飲んでは暴れていた。

そんな父の反面教師ぶりを笑い飛ばすことにした私たちは、
「あんな大人になっては駄目」を合言葉に団結できた。

同級生と同じような青春時代を送ることができず、
失ったものも沢山あった。

だが我が家には、天使のような笑顔の母がいた。

「母の笑顔が見たい」

十年に及ぶ介護をやってこられた理由だ。

春には菜の花や桜を、夏には海や蛍を、秋には紅葉を、
冬には梅を見に行った。

たいしたところには連れて行けなかったが、
写真の中の母はいつも笑ってくれていた。

支えているつもりが、母に支えられていたのだった。

このまま穏やかな日々が続くと思っていたが、
神様はまた大きな試練を母に与えた>>>

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年半あまりが経った頃に宣告された母の末期がん。

余命は半年、
もう手遅れだった。

在宅医療の体制も整わない時代だったが、
住み馴れた我が家で最期を迎えさせたいと思った私は在宅を選択した。

最期のその時まで泣かないと決めても、
ふと気が緩むと、涙があふれてくる……。

そんな絶望の中の光となったのは、またしても母だった。

母は、自分は長くないことを悟っていたはず。

ガリガリに痩せ、寝たきりとなった母の身体には、
点滴の管、尿カテーテル、オムツ、
そしてがんが腸を巻き込むように大きくなったため、
人工肛門が付けられていた。

ある日、「ほらほら」と私をベッドサイドに呼ぶ母。

「なあに」とのぞきこむと、
ちょうど人工肛門から便が出るところだった。

まるで珍しいおもちゃを見せるかのようにおどけた笑顔だった。

その明るさに、
「本当に良いウンチが出たね」と私も笑った。

母には勝てないと思った瞬間だった。

訪問看護師さんにも、母は拙い言葉で「感謝だわ」と語りかけ、
帰り際に枕元にある飴やガムを手渡していた。

もし私だったら母のように出来るだろうか……。

生きている意味があるのかと思われる状態だったかもしれないが、
「最期の最期まで人には役割がある」ということ、
そして「限りある命だからこそ輝く」と教えてくれた。

「仕方ないのよ~」。

悩みを相談するといつもこう言ってくれた母。

これは諦めの気持ちではなく、
悩んでいても仕方がない、
ありのままを受け入れて頑張ろうという意味だった。

母が太陽のように照らしてくれていたから、
私は前を向いて歩けたのだった。

母亡き今も、落ち込んだ時に空を見上げると、
「仕方がないのよ」と屈託のない声が聞こえてくる……。

引用元:PHP特集「笑い」が心を強くする
”最期の時まで笑う”(町 亞聖)

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