そのバンドは、何度も名前を変え、何人もメンバーが変わり、
やがて、20世紀のレジェンド「ビートルズ」へと編成されていきます。
ビートルズがまだ芽も出ない、地べたを這いずる時代のお話です。
1959年、ジョンレノン19歳の時です。
まだまだヒットのかけらすらほど遠いビートルズ。
ようやくドイツのハンブルクで、クラブの演奏の仕事が入りました。
しかし、当時のハンブルクは、銃声が鳴り響き、
ギャングが大手を振って歩く犯罪都市でした。
しかも、ハンブルクでの仕事は、食事は昼に一度、
ミルクをかけたコーンフレークが1杯出されるだけ。
クラブでは一晩で、10~12時間と出ずっぱりのステージ。
控えはトイレ。
宿泊先は、隣の映画館の裏の物置。
そして、客は、音楽なんか聞く気もない荒くれ者たちで、
元受刑者すらいました。
そんな生活を5か月続けたある日、
メンバーのジョージ・ハリスンが18歳以下であることがバレて、
逮捕され国外追放に。
さらに、寝泊りしていた映画館で、
ポール・マッカートニーがマッチを付けたところ、
壁が黒コゲのボヤ騒ぎに。
放火の容疑で、これまた国外追放になりました。
まったくボロボロのビートルズです。ただの不良バンドです、ここまでは。
こうしてメンバーは、生まれ育ったイギリス、
リヴァプールに戻らざるを得なくなります。
意気揚々と向かったドイツでしたが、
有名になることもなく、帰りは散々。
みんな失意のどん底で、自信を失いました。
「ビートルズはもう終わりだ……」
帰国後のジョンは、当時の彼女にこう告げるほどの
意気消沈ぶりでした。
後に天才の名を欲しいままにするポールですら、
このときは虚無感に襲われ、家でゴロゴロしていたところを父親に叱られ、
しぶしぶ就職します。
トラックの荷物の積み下ろしや、電気のコイル巻の仕事など、
どうにも気が向かない仕事で、ポールは無為に日々を費やしました。
ここで、ひとりあきらめの悪い男がいました。
ジョージ・ハリスンです。
ジョージは、ポールとジョンの元を訪れ、
「もう一度バンドをやろう!」とふたりを励まし続けたのです。
そして、…やがてチャンスはやって来ます。
1960年12月27日。
ビートルズのターニングポイントと言われる日です。
リヴァプールの北、リザーランドのタウンホールに立ったビートルズ。
ポールが「ロング・トール・サリー(のっぽのサリー)」
を歌い始めました。
一瞬で気だるい空気が変わりました。
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ポールが歌うや、一瞬、ホールは静まりました。
その一瞬の静けさを突き破るように、
そののち、ウワーッという大歓声が湧き上がったのです。
客は総立ち。
観客は金切り声でステージに押し寄せてきました。
「一体、どうしたというんだ?!」
ビートルズのメンバー全員が戸惑いました。
この瞬間が、後に音楽の歴史を塗り替える1ページであったことを、
本人たち誰もがこの時、気づきもしませんでした。
どん底だったハンブルクでの5ヵ月に渡るハードな演奏の中で、
彼らの音楽は劇的に進化を遂げていたのです。
ジョンはこう振り返っています。
「ビートルズがまさにビートルズとして育ったのは、
リヴァプールじゃない。ハンブルクだ。
ハンブルクで、僕らは本当のロック・バンドに成長したんだ。
12時間もぶっ続けで、言葉の通じない、しかも音楽など
まるでお目当てでない種類の人間をのせるだけのものを、
僕らは身につけていた。
ひどい夜(「ア・ハード・デイズ・ナイト」)だった。
あのひどい犬並み、いや、それ以下の日々の中で、
一番大切な【何か】を自分たちのものにしていた…」
人は、〝ア・ハード・デイズ・ナイト〟(悲しみ)の中で本気になり、
人は、〝ア・ハード・デイズ・ナイト〟(絶望)の中で絆を結び、
人は、〝ア・ハード・デイズ・ナイト〟(逆境)の中で進化するのです。
No Rain, No Rainbow.
雨降らずして虹は出ない。
参考本:「心が折れそうな時、キミを救う言葉」(SB文庫)
ひすいこたろう著