ビートルズが20世紀の音楽のレジェンドになった瞬間

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1957年3月
ジョンレノンが結成したバンドがありました。

そのバンドは、何度も名前を変え、何人もメンバーが変わり、
やがて、20世紀のレジェンド「ビートルズ」へと編成されていきます。

ビートルズがまだ芽も出ない、地べたを這いずる時代のお話です。

1959年、ジョンレノン19歳の時です。

まだまだヒットのかけらすらほど遠いビートルズ。

ようやくドイツのハンブルクで、クラブの演奏の仕事が入りました。

しかし、当時のハンブルクは、銃声が鳴り響き、
ギャングが大手を振って歩く犯罪都市でした。

しかも、ハンブルクでの仕事は、食事は昼に一度、
ミルクをかけたコーンフレークが1杯出されるだけ。

クラブでは一晩で、10~12時間と出ずっぱりのステージ。

控えはトイレ。

宿泊先は、隣の映画館の裏の物置。

そして、客は、音楽なんか聞く気もない荒くれ者たちで、
元受刑者すらいました。

そんな生活を5か月続けたある日、
メンバーのジョージ・ハリスンが18歳以下であることがバレて、
逮捕され国外追放に。

さらに、寝泊りしていた映画館で、
ポール・マッカートニーがマッチを付けたところ、
壁が黒コゲのボヤ騒ぎに。

放火の容疑で、これまた国外追放になりました。

まったくボロボロのビートルズです。ただの不良バンドです、ここまでは。

こうしてメンバーは、生まれ育ったイギリス、
リヴァプールに戻らざるを得なくなります。

意気揚々と向かったドイツでしたが、
有名になることもなく、帰りは散々。

みんな失意のどん底で、自信を失いました。

「ビートルズはもう終わりだ……」

帰国後のジョンは、当時の彼女にこう告げるほどの
意気消沈ぶりでした。

後に天才の名を欲しいままにするポールですら、
このときは虚無感に襲われ、家でゴロゴロしていたところを父親に叱られ、
しぶしぶ就職します。

トラックの荷物の積み下ろしや、電気のコイル巻の仕事など、
どうにも気が向かない仕事で、ポールは無為に日々を費やしました。

ここで、ひとりあきらめの悪い男がいました。

ジョージ・ハリスンです。

ジョージは、ポールとジョンの元を訪れ、
「もう一度バンドをやろう!」とふたりを励まし続けたのです。

そして、…やがてチャンスはやって来ます。

1960年12月27日。

ビートルズのターニングポイントと言われる日です。

リヴァプールの北、リザーランドのタウンホールに立ったビートルズ。

ポールが「ロング・トール・サリー(のっぽのサリー)」
を歌い始めました。

一瞬で気だるい空気が変わりました

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ールが歌うや、一瞬、ホールは静まりました。

その一瞬の静けさを突き破るように、
そののち、ウワーッという大歓声が湧き上がったのです。

客は総立ち。

観客は金切り声でステージに押し寄せてきました。

「一体、どうしたというんだ?!」

ビートルズのメンバー全員が戸惑いました。

この瞬間が、後に音楽の歴史を塗り替える1ページであったことを、
本人たち誰もがこの時、気づきもしませんでした。

どん底だったハンブルクでの5ヵ月に渡るハードな演奏の中で、
彼らの音楽は劇的に進化を遂げていたのです。

ジョンはこう振り返っています。

「ビートルズがまさにビートルズとして育ったのは、
 リヴァプールじゃない。ハンブルクだ。
 ハンブルクで、僕らは本当のロック・バンドに成長したんだ。
 12時間もぶっ続けで、言葉の通じない、しかも音楽など
 まるでお目当てでない種類の人間をのせるだけのものを、
 僕らは身につけていた。

 ひどい夜(「ア・ハード・デイズ・ナイト」)だった。
 あのひどい犬並み、いや、それ以下の日々の中で、
 一番大切な【何か】を自分たちのものにしていた…」

人は、〝ア・ハード・デイズ・ナイト〟(悲しみ)の中で本気になり、
人は、〝ア・ハード・デイズ・ナイト〟(絶望)の中で絆を結び、
人は、〝ア・ハード・デイズ・ナイト〟(逆境)の中で進化するのです。

No Rain, No Rainbow.
雨降らずして虹は出ない。

参考本:「心が折れそうな時、キミを救う言葉」(SB文庫)
    ひすいこたろう著

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