その一作を読んでて、つい涙ぐんでしまいました。
涙腺がユルくなったのは、年のせいなのか、
その古典落語が優れてるせいなのか、
その両方なのでしょう。
その落語の演目は「たちぎれ」というもの。
あらすじを駆け足でご紹介します。
その昔から花街のルールとして、芸者への花代は線香で換算されていました。
線香が燃えた長さを測って「はい、いくら」という請求になったのです。
とある商家の若旦那は、それまで遊びを知らず誠実に働いていました。
しかし、ある時、友達に誘われて花街へ行き、
置屋の娘で芸者の小糸に出会い、一目惚れをしました。
若旦那はたちまち小糸に入れあげ、店の金にまで手をつけるに至ります。
大旦那はそれを知るや、若旦那を勘当しようと覚悟します。
そこで、重要な役割の番頭さんが登場します。
番頭さんは、もともとが利発で素直な若旦那の素養を買っています。
ほんの一時の気の迷いだから、ここのところは、
わたしにお任せいただけませんでしょうか、と大旦那に食い下がります。
大旦那に一任された番頭さんは、
若旦那を軟禁しようと考えました。
番頭さんは、若旦那を小糸に逢わせないために、店の蔵の中に押し込め、
100日間そこで暮らすよう言い渡します。
番頭さんとしても辛かったのです。
若旦那とはいえ、これからお店の看板を背負って立つ未来のご主人です。
ためを思い心を鬼にして、若旦那を幽閉したのでした。
ただ、蔵の中には、若旦那が一刻も早く目覚めるように、
あらゆる書物を用意し、誰一人、中に通さないようにしました。
幽閉一日目、若旦那は大事なことを思い出しました。
「あ、ちょっと待て、番頭!開けてくれ!
今日は小糸と約束してたんだ!一緒に芝居に行く約束だ!
頼む!今日だけ見逃してくれ!
明日から必ず蔵に入る」
蔵の外からは何の反応もありません。
番頭さん、手を合わせて心の中でつぶやきます。
「若旦那、辛抱です。
私も鬼になります」
蔵の中からは、若旦那の番頭をののしる叫び声が轟きます。
「ここであたしは、飢え死にしてやる。
死んでお前にとり憑いてやる!」
その後、小糸の店からは、毎日のように手紙が来ます。
しかし番頭さんは若旦那に見せません。
若旦那が蔵住まいになって80日目、ついにその手紙は来なくなりました。
やがて、大旦那にも、そして若旦那にも約束していた
100日が経過しました。
蔵の扉を開けた番頭さん、
そこで目にしたものは!!>>>
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番頭さんが目にしたもの、それは、
書物を読みふける若旦那の姿でした。
番頭さんを見上げた若旦那のその目は、
明らかに変化していました。
花街に溺れていた頃の男の眼ではない、
明らかに何かを掴んだ男の眼に変貌していました。
そして言いました。
「やはりここで本を読んでいるより、
あたしは帳場に立ちたいね。
今、あたしは、仕事がしたくてしたくてたまらないんだよ」
番頭さんの頬に涙が伝います。
「若旦那!そのお言葉がどれほど聞きたかったか…」
「すまないね、番頭、苦労をかけた」と若旦那。
そして若旦那は、語りました。
「それともう一つ、蔵の中で決めたことがある。
……小糸を妻にする。
遊びじゃない。
夫婦になって、この家を盛り立てていく。
あの子はまだ幼いが機転の利く飲み込みのよい子だ。
きっとあたしを支えてくれる伴侶になる」
番頭さんが辛い表情で言いました。
「若旦那、お話があります」
そう言って、若旦那の蔵生活から80日もの間、
送られてきた手紙の束を若旦那に渡しました。
若旦那は、その手紙の束に驚きます。
次の日も、その次の日も、休むことなく、
その手紙は若旦那宛てに送られてきていたのです。
「小糸ーーーっ!」
若旦那は絞るような声を出しました。
番頭さんは、しかし、こんな風に言いました。
「ですが若旦那、残念ながら手紙は80日で途絶えました。
小糸さんの若旦那への思いも80日かもしれません。
それが花街の恋の期限と思し召し…
どうか心を落とすことなくお戻りください」
そんな番頭の話しが終わるか終わらないかのうちに、
若旦那は席を立ち、一目散に小糸のいる置屋を目指していました。
置屋に着いた若旦那。
女将さんに案内されたのは仏壇の間でした。
若旦那は女将に位牌を見せられ、
驚くことに、小糸が死んだことを知らされます。
「若旦那と芝居に行く約束をした日、
あの子はどれほどはしゃいでいたか知れません。
朝早くから起きて、食事もとらずに、
着ていくものを、とっかえひっかえ大騒ぎしていました。
あなたが来るのを待って、玄関まで行ったり、通りまで出たり…
まるで幼い子供のようでした」
「……」
「でも若旦那、あなたは来なかった。
夜更けて、やっとあの子は着物を脱ぎ始めました。
そしていつまでも泣いていました。
しばらくして、あの子はこう言いました。
『おかあさん、あたし…若旦那にお手紙書いていい?』
翌日からあの子は若旦那に手紙を書きます。
書いても書いても返事の来ない手紙でした」
「ひと月過ぎ…ふた月過ぎ…季節が変わった頃、
『お母さん、やっぱりあたし…嫌われたのかしら…』
小糸は次第に弱っていきました。
どんな励ましの言葉も虚しいばかり。
手紙を書くこと以外、何もできなくなりました。
人に惚れて惚れぬいて……
焦がれ死にする女なんてどこにもいません。
…あたしもそう思ってました」
若旦那が仏前に位牌と三味線を供え、手を合わせた時、
どこからともなく若旦那の好きな地唄の「雪」が流れてきます。
周りにいた芸者が「お仏壇の三味線が鳴ってる!」と叫びます。
ひとりでに鳴る三味線を見た若旦那は、
「すまない小糸、許してくれ。お前のことは一生忘れない。
あたしの女は生涯おまえ一人だ」と呼びかけます。
女将が言います。
「いいんですよ、若旦那。
ここを出たらあの子のことは忘れてくださいな。
謝ることはありません。あの子だって…
小糸だってたくさん…
若旦那にいい思い出をもらったはず。
若旦那もあの子のよい思い出だけを…
心の隅にちょこっと…それだけで充分です」
その時急に三味線の音が止まります。
女将は「若旦那、あの子はもう、三味線を弾けません」と言いました。
若旦那が「なぜ?」と聞くと、
「仏壇の線香が、たちぎれでございます」
若旦那の思いを聞き、線香の「たちぎれ」とともに、
この世の未練を断ち切って旅立った小糸だったのでしょうか。