1998年、長野五輪
スキージャンプ大会で、
日本チームは金メダルを獲得しました。
感動的な場面でした。
当時「世界最強」と謳われ、あまりの強さに、
その後ルールが変更されたとも言われる日本チームでした。
競技当日は、ひどい悪天候でしたが、
それが思わぬドラマを生むことになったのでした。
競技途中から吹雪のようになり、3番手の原田雅彦がまさかの失速。
日本チームは、1本目の競技を終えた時点で4位となり、
そのまま競技は中断されました。
もし、このまま中止になれば、メダルすら逃してしまう。
こんな状況に代表選手以外の、縁の下の力持ちが奮い立ちます>>>
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奮い立ったのは、25人のテストジャンパー達です。
競技の安全な運営を判断するために、「試し飛び」をするジャンパー達でした。
開催国の日本から、代表になれなかった25人の選手たちが指名されたのでした。
その中には、リレハンメル五輪で金メダルを逃し、
今回代表から漏れた西方仁也もいました。
「俺たちが飛べなければ、競技は中止になってしまう。どんなことがあっても飛ぶ。
そして2本目をスタートさせるんだ」
視界もままならない悪天候の中、テストジャンパー達は決死の飛行を試みました。
「転倒するな」
「(次々に飛んで)助走路の溝を守れ」
「距離を伸ばせ」
これらが合言葉でした。
最後のテストジャンパーとなった西方は、K点越えの大ジャンプ。
これなら大丈夫だろうと、競技再開の判断が下されました。
2本目、原田の飛距離は137メートル。
着地の衝撃で、板にひびが入るほどの大ジャンプでした。
その日、原田が着ていたアンダーウェアは、西方からの借り物でした。
西方の魂をオリンピックに持ち込むために、彼から譲り受けたものだといいます。
降りしきる雪の中で、原田を胴上げしていたのは、ともに戦った岡部、斎藤、船木。
そして、誇り高い25人のテストジャンパー達でした。