プロ野球の監督として、最下位を経験するのは辛いことだと思います。
だけど、もしもその翌年、優勝したりすれば、
谷底から山頂に登りつめたような心境でしょう。
最下位の翌年にチームを優勝に導いた監督が二人います。
一人は、お馴染みジャイアンツの長嶋監督。
もう一人は、近鉄バファローズの梨田監督です。
監督就任1年目の2000年は最下位。
2年目の2001年に史上4度目、球団最後のリーグ優勝に導きました。
近鉄バファローズといえば、2004年にオリックス・ブルーウェーブと合併し、
球団が消滅することになりました。
梨田さんは、現役のときから男前で有名でした。
男前の梨田さん、チーム消滅のときの監督としての振舞いも男前でした。
合併の際、近鉄のカラーを残すべく配慮したオリックス側から
ヘッドコーチの転任を打診されました。
当時のオリックスの監督は、ご存じ故仰木彬さんでした。
恩師である仰木さんからも強く慰留されましたが、
梨田さんはこう言って残留をお断りしました。
「選手・スタッフやファンがばらばらになり、
その進路も決まらないうちに、自分一人が残るのは望ましくありません」
そして、シーズン最終戦の前日に、選手を集めて全員に話をします。
その時、集まった選手たちに残した梨田さんの言葉は、
最後の近鉄選手たちの心に強く残っているそうです。
それは、ほんの短い言葉でした>>>
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最終戦の前日、梨田監督が選手たちに残した言葉です。
「みんな胸を張ってプレーしろ。
お前たちが付けている背番号は、
すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」
その言葉で、近鉄の最後の選手としての誇りを持ちつつ、
選手たちはグラウンドに出て、ファンの声援に応えることができたのでした。
近鉄の解散前の10月15日付けで、梨田さんは退団しますが、
それは、あくまで「近鉄の」梨田としてユニフォームを脱ぐことを望んだためです。
関西球界で根強い人気を持つ仰木さんの下につかないことで、
一部から批判もありました。
しかし、誰よりも恩師の仰木さんが、梨田さんの胸中や立場を理解していたのです。
仰木さんの死後、梨田さん自身も恩師である仰木さんの力になりたかったのが
本音だったことを回顧しています。