メジャーリーガーになるという夢が…。
彼は黙々と練習を続ける。
夢をその手に掴むために…。
夢のきっかけは、6歳の時に父親と行った
ヤンキースタジアムでの出来事だった。
【1-0】でヤンキースが負けていた。
しかし、9回裏、ランナー1塁、一打逆転のチャンス。
少年は興奮しながら父親に向かって、
「見ていて!次のバッターがホームランを打つよ」
微笑む父親。
そして、運命の女神も微笑んだのだ。
逆転サヨナラホームラン!!
少年は夢見心地でつぶやいた。
「ねえパパ、僕もメジャーリーガーになれるかな?
ヤンキースタジアムに立てるかな?」
するとパパは微笑みながら、
それでも力強く、少年の頭をなでながら言った。
「ああ、なれるさ。最後まであきらめなければな」
それから少年の練習の日々が始まる。
少年には障がいがあった。
はじめ野球の仲間に入れてもらえなかったが、
来る日も来る日も、黙々と練習を続けた。
そんなある日、人数が足りないため、
少年が試合に参加することになった>>>
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少年は、その試合で大活躍。
少年は野球チームから引っ張りだこになった。
その障がいをものともせずに…。
中学を卒業した少年はプロを目指し、
野球学校に入校。
少年は誰よりも真面目だった。
誰よりも早く練習場に行き、
誰よりも遅く練習場を出た。
守備も打撃も誰よりもうまい少年。
しかし、どこからも声はかからない…。
アメリカはメジャーリーグを頂点とし、
「AAA」「AA」「A」「B」「C」「D」リーグと
ピラミッド型を構成している。
その一番下のDリーグにすら声のかからない少年。
腐らずに黙々と練習する少年の姿に、
感動した学校の先生は、
Dリーグの監督を集め、少年を見てもらう。
結果は…
全敗だった。
どこからも声がかからなかったのだ。
卒業した少年は、アマチュア選手として活躍。
しかし夢をあきらめきれず、
24歳の時、ニューヨークに行き、
Dリーグの入団テストを受けに行った。
しかし、オーナーは全く相手してくれない。
そこで彼は10ドル紙幣を取り出し、
オーナーに渡してこう告げる。
「これは僕の全財産ですが、あなたに預けます。
僕に入団テストを受けさせて下さい!!
もし僕がチームの役に立てそうになかったら、
返さなくて結構です」
オーナーは、少年の自身と必死な態度に負けて、
テストだけは受けさせることにした。
とりあえず10ドルもうけたなと…。
しかし、オーナーの予想は良い意味ではずれた。
彼のプレーは群を抜いていた。
そして彼は合格。
1942年、晴れてマイナーリーグのプロになることができた。
その後の彼の活躍をまとめておく。
1942年 打率 3割8分1厘、首位打者のタイトル獲得。
1943年 2Aリーグに昇格。
1944年 打率 3割3分3厘、ホームラン5本
ホームスチール10回を含む68盗塁。
輝かしい成績をあげ、MVPを獲得。
そして1945年、
メジャーリーグのブラウンズと契約。
打席に立つ少年、夢にまで見たメジャーリーグの打席。
第一打席 三振
第二打席 三振
第三打席
バットが空を切り、三球三振という成績であった。
しかし、観客はピートが三振して打席を去っても、
席から立って拍手を止めなかった。
ずっと続くかと思われるくらい拍手が止まなかった。
三球三振なのに…。
なぜだろうか?
それは…
彼には右腕がなかったのだ。
片腕のメジャーリーガー『ピート・グレイ』
彼は6歳の時、列車から転落するという事故で、
利き腕の右腕を失う。
野球選手になるのが夢だったピート。
絶望しかけたピートを励ますため、
ヤンキースタジアムに連れて行った父親。
そして父親の言葉を信じ抜いたピート。
ピートは夢を諦めなかった。
そして彼は、その片腕で夢を掴んだのである。
【最後にピートの言葉です】
私の子供の頃の夢は、
ヤンキースタジアムで野球をすることでした。
そして、それを叶えられたことが、
自分の人生にとって、最も素晴らしい出来事だったと思います。
自分のような体に障がいを持つ者にとって、
練習こそが全てでした。
でもたとえ、練習しても、
自分にやってくるチャンスはわずかなものでした。
ある時、こう言われたことがあります。
「両方の腕があっても、野球をするのが難しいのに、
片腕で野球なんかできるわけがないだろう」
それでも諦めず、自分は夢に向かって練習したのです。
最後に好きな言葉を贈ります。
A winner never quits.
『勝利者は常にあきらめない』