「こども食堂」亡き妻のレシピが出発点でした

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や6人に1人と言われる子どもの貧困。

中でも1日3食の食事をまともに取れない、空腹で眠れない、
といった子どもの「貧食」。

また、経済的に問題を抱えていない場合でも、
親が仕事で忙しいなどの理由から、
1人で食事を取らざるを得ない「孤食」など、
子どもの食事は大きな問題をはらんでいます。

そんな中、子どもが1人でも入れる、
しかもたったの300円で栄養満点の食事を取れる
「こども食堂」という活動が都内で実施されています。

要町あさやけ子ども食堂のホームページにはこうあります。

あさやけ子ども食堂は、子どもが1人でも入れる食堂です。
家で1人で食べるより、みんなでワイワイ食べましょう。
毎月、第一と第三水曜日の17:30~19:00オープン。
どなたでも、300円で栄養バランスのよい夕食を食べられます。

ぶっきらぼうの子どもも、お行儀悪い子どもも笑顔で見守ってください。
料理を一緒に作ってください。
配膳を手伝ってください。
あまっている食材を分けてくだ さい。
お皿を洗ってください。
お友達を誘って、またご来店ください。
カンパをしてください。
他のお客さんともおしゃべりして、仲良くなってください。
子どもの話しを聞いてください。
帰り道、子どもと途中まで一緒に帰ってください。
子どもとハグや握手をしてください。
「また会いたいね」って子どもに声をかけてください。
「いいね」って言ってください。
スタッフに「ありがとう!」と声をかけてください。
スタッフにお味の感想を伝えてください。

このNPO活動の理事をやっている山田和夫さん(74)は、
ニコニコしながら、玄関先で子供たちの頭をなでます。

山田さんは、築50年を超える木造2階建ての住宅を
「こども食堂」に解放しています。

もともと山田さんは玩具メーカーに勤めるサラリーマンでした。

2009年夏、膵臓(すいぞう)がんを発病し、
自宅療養をしていた妻の和子さんに突然言われました。

「お願い。パンを焼いてくれない?」

和子さんは、それまで自宅でパン屋を開き、
売れ残ったパンをホームレスの支援団体に提供していたのです。

「無理だよ!」

山田さんは、玩具メーカーを退職したばかり、
パンを焼いたことなど、ただの一度もなかったのです。

でも、その「無理だよ!」のひと言が、
今日の「こども食堂」の活動につながるのでした>>>

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「大丈夫」と、
和子さんからB5判の紙に鉛筆で書かれたレシピを手渡されました。

「書いてある通りにやれば、できるでしょ」

数週間後、和子さんは57歳で亡くなりました。

息子2人はすでに独立し、家を訪ねて来る人も、
電話や手紙もほとんどありません。

ひとりぼっちになったと感じました。

それから半年。山田さんは、レシピのことをふと思い出しました。

遺品の中から捜し出し、書いてある通りにパンを焼きました。

少し固いが、食べられました。

ホームレスの支援団体に連絡を取り、
週1回、50個ずつ取りに来てもらうことにしました。

1カ月、半年、1年……。

おいしく焼けるようになりました。

その矢先のことでした。

2011年3月に東日本大震災が起き、また孤独感に襲われました。

都内に住んでいた次男家族も関西に引っ越しました。

気力が落ち込み、パンを焼けなくなりました。

数カ月後、ホームレスの支援団体から電話が来ました。

「お手伝いをしたい人たちがいるんです。パンを焼いてもらえませんか」

支援者と一緒に来たのは、元ホームレスや心身に障害のある4人の男性。

最初は戸惑いましたが、パンを焼くうちに冗談を言い合えるように。

材料費はスーパーでパートをして賄いました。

週1回のその活動を、「池袋あさやけベーカリー」と名づけました。

活動が軌道に乗った頃、今度は経済的に苦しい家庭の子たちを支援する
NPO法人代表の女性が訪ねてきたのです。

「子どもたちのためにも何かやりませんか」

そう言われ、山田さんは提案しました。

「子ども食堂、やってみたいな」

2013年春、こども食堂の開店に至りました。

一人になった自分が社会とつながって生きていけるように、
妻は1枚のレシピを残してくれたのかもしれない。

「思わぬ人生になったけれど、
これからの日々を我が家に来る人たちのために使いたい。
あの世で妻に、ありがとうと言いたい」

山田さんはそう語っています。

◆食堂は毎月第1、第3水曜に開店。
問い合わせは03・3957・4270(斉藤純江)

参考URL   要町子ども あさやけ食堂

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