どこまでも信じてくれた母が歴史的科学者を育てた

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と過ごした時間は決して長くはありませんでしたが、
 母がああいう人でなかったら、私はグレていたかもしれません」

世界の発明王・エジソンは、晩年のインタビューで、こう語っています。

エジソンは、白熱電球や蓄音機、映画、謄写版、アルカリ蓄電池などを
次々に発明し、生涯に1200余りの特許を取得しています。

「グレていたかもしれない」子供を、偉大な発明家に育て上げた母親とは、
どんな人だったのでしょうか?

少年時代のエジソンは、好奇心が強く、
いつも「バカげた質問」ばかりしていたといいます。

父親はうんざりしていましたが、母親は忍耐強く答えてあげました。

「お母さん、ガチョウは、なぜ卵の上に座るの?」

「温めてやるためよ」

「なぜ、温めるの?」

「卵をかえすためなのよ」

「卵をかえすってなあに?」

「ガチョウの子供を、殻の中から出してやることよ。
 ガチョウはそうして生まれるのよ」

「それじゃ、卵をあったかくしておいたら、
 ガチョウの子供は生まれてくる?」

「そうよ」

その日の午後、エジソンの姿が見えなくなりました。

家族であちこち捜し回ると、隣の家の納屋にいることが分かりました。

なんと、ガチョウや鶏の卵をいっぱい集めて巣を作り、
うずくまって温めていたといいます。

8歳で小学校へ入りました。

しかし、彼には学校の授業が合わなかったようです。

興味のわかないものを無理に強いられることに、
拒否反応を示したのでした。

後年、彼は、次のように言っています。

「わたしは学校ではどうもうまくいかなかった。
 クラスでいつもビリだった。
 先生たちは、私のことを解ってくれないし、
 父は私をバカだと思っているのだ、と私はいつも感じていた」

学校に通い始めて三ヵ月ほど経ったとき、エジソンは校長から、
「あいつの頭は腐っている」
と言われたのです。

彼は、怒って教室を飛び出して家に帰り、
「もう学校へ行かない」
と言い出しました。

母親は、じっと少年エジソンの表情を見つめました。

そして、何か心に決めることがあったようです。

翌朝、母親はエジソンを伴い、学校に向かいます。

そして、母親がとった行動が、
その後のエジソンの運命を決定づけます。

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朝、母親は、子供と一緒に校長のところへ行き、
激しく抗議しました。

母は、わが子の能力が低いとは夢にも思っていません。

激論の末、息子を退学させ、
自分の手で教育すると宣言したのです。

母は、朝の仕事がすむと、
エジソンに読み書きと算数を教える毎日が始まりました。

やがてエジソンの興味が、科学に向いていることに気づいた母は、
初等物理の本を与えました。

その中には、家庭で出来る科学実験が図入りで説明されていました。

彼は夢中になって取り組み、
掲載されている実験をすべてやり遂げました。

10歳になると、化学への情熱も高まり、
あらゆる化学薬品を集めてビンに入れ、
自分の部屋の棚に並べました。

小遣いは全部、化学薬品や金属板や針金の購入に使いました。

実験中に、自分の部屋で爆発を起こす騒ぎもありましたが、
母だけがエジソンを理解し、彼の才能が伸びる方向へ
押し出してくれたのでした。

その後、エジソン少年は貧しい家計を救うために、
12歳の時には列車で新聞売りの仕事をやったり、
また耳が聞こえなくなるという苦難にも遭遇します。

しかし、あの日、校長から「頭が腐ってる」と言われた少年は、
あらゆるハンディをものともせず、次々と自分の夢を実現していくのです。

晩年に、エジソンはこう語っています。

「今日の私があるのは母のおかげです。
 母はとても誠実で、私を信頼してくれましたから、
 私は母のために生きようと思いました。
 母だけはがっかりさせるわけにはいかないと思ったのです」

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