江夏豊さんと野村克也さんとは、かつて投手と監督の関係で強い絆を作り上げました。
この二人は、どちらも強い個性を放っており、
江夏さんは一匹狼で容易に上司に従うタイプではない、
野村さんは口うるさくしつこい頑固オヤジです。
とても二人が仲良くなれそうには思えません。
しかし互いに頂点を極めるような達人には、
達人同士で通用する会話というのがあるのでしょう。
「士は己を知る者のために死す」
という言葉がありますが、
江夏さんが野村さんを心酔するようになった理由は、まさにこれだったのです。
1976年、江夏投手が阪神から南海へ移籍する時のことでした。
南海には、選手兼任監督の野村克也がいました。
野村監督は、江夏投手に交渉の合間、ちょっとした雑談をしました。
’75年10月1日の、阪神対広島のゲームの話題を野村さんが持ち出したのです。
走者満塁で、敵のバッターは衣笠祥雄という場面です。
カウントは2-3。
集中力のある衣笠、しかしながらこのところ、ヒットに恵まれず、
幾分気持に焦りのある衣笠。
その強打者の心理を読んで、江夏は敢えて、
フルカウントから意図的なボール球を投げます。
結果、この時の勝負は衣笠選手の空振り三振でした。
野村さんは、その時のことを克明に覚えており、江夏さんにこう言いました。
「あの時のボール球は、意図的なものだったんやな」
誰にも知られていないだろうこと、それもかなり過去に属するゲームでのこと。
その時の細かい心理状況を、野村さんに読まれていたのです。
江夏投手は、当初南海に移籍する気は全くなく、
阪神に在籍のまま現役を終えるつもりでした。
しかし、その時のほんの少しの雑談で江夏さんは、
野村監督の野球観に影響を受けたのでした。
それがひとつのきっかけで、南海への移籍を決意した江夏投手でした。
そして、江夏さんが本格的に野村監督に心酔するのは、それから後のことでした。
当時の江夏投手は、すでに本来の豪球投手のピークを超えており、
また幾つかの病気を抱え、長いイニングを投げられない状態に陥ってました。
野村監督は、腐りかかった江夏投手にある提案をします。
先発ではなく、リリーフとしての生き方でした。
そんな提案は、阪神時代から何度も何度も受けていたのです。
そんな話は聞きたくもない江夏投手でした。
しかし、江夏投手の心が動いたのは、野村監督のこのひと言だったのです>>>
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江夏投手の心理としては、トレードの上にリリーフか、
何で自分ばかりがこんな恥をさらさなければならないのか。
持ち前のプライドが邪魔をして、なかなかリリーフの話に頷きたくありません。
ここで、野村監督はこういう言葉で江夏投手を説得したのです。
「二人で野球界に革命を起こそうやないか」
これまで、専門職として確立した地位ではなかったリリーフ投手。
その地位を、二人でキチンとした地位に高めようじゃないか。
本来、安定したリリーフ無くして、先発の強みは発揮できない。
単なる縁の下の力持ちではなく、公正な評価を得るポジションとして、
リリーフ投手という立場を二人で高めようじゃないか、
それが野村監督の主張だったのです。
江夏投手は後にこう言っています。
「ムース(野村)の『革命』という言葉が心に響いた。
革命と言われなかったらリリーフ転向は受け入れなかったと思う」
野村監督の言葉どおりに、そして、江夏投手のリリーフ投手としての
その後の復活も裏打ちするように、
やがて、日本プロ野球でのリリーフ投手としての位置づけが大きく変わりました。
『革命』の言葉どおりに、リリーフ投手という「ポジション」を変えたのは、
この二人の力に負うところが大きいようです。