岩手放送に「南部弁が堪能なアナウンサー」として有名な、
菊池幸見さんというアナウンサーがいます。
菊池さんの手記から抜粋した文章をご紹介します。
【僕ができる恩返し】より
「親父が倒れた!!」
その知らせを聞いたのは、高校三年生になったばかりの、
進路ガイダンスの最中だった。
僕は動転しながら、家族や親戚と横浜へ向かった。
岩手から横浜までの距離が果てしなく遠く感じられた。
親父は現場監督だった。
その日も現場で指揮をしていて、
不幸にも倒れてきた機械の下敷きになったのだ。
頭蓋骨骨折で意識不明。
絶望的だった。
だが親父は驚異的な生命力で一命をとりとめた。
その代わりに左足を失って・・・
眠ったままの親父の顔を見ていたら、
ボロボロと涙がこぼれてきて止まらなかった。
と同時に、自分は長男だからしっかりしなきゃいけない、
という気持ちがわいてきた。
そして真っ先に浮かんだのは、大学進学のことだった。
ただでさえ生活が豊かでない我が家。
それでも親父は僕を大学へ行かせようと出稼ぎにまで出て、
入学費用を稼ぎ、そのあげくに事故に遭った。
もしかしたら僕が悪いのかもしれない。
そんなことを考えていると、窓から見える横浜の夜景が、
また少しにじんで見えた。
そして心の中で決意した。
もう大学は諦めよう。
これからは僕が父のために働く番だと。
数日後、付き添いの母を残して、
僕と妹は岩手へ戻った。
まだ眠ったままの親父のことは気がかりだったが、
僕と妹には学校があった。
そして、その日から僕の闘いが始まった。
妹はまだ小学校三年生だったから、
その世話はすべて兄である僕がやらねばならなかった。
朝起きて、洗濯機を回しながらの朝食。
妹を小学校へ送り出した後、
慌ただしく高校へ。
授業が終われば、帰り道スーパーでお買い物。
家に戻って、束の間の復習。
妹に食事をさせ、風呂に入れ、寝かしつけた後、
やっと問題集に向かった。
大学進学はとっくに諦めていたけど、
勉強だけは続けたかった。
それに家が大変で、成績が下がったなんて
言われたくなかったからだ。
≪中略≫
やがて五月になり、親父が目覚めたとの連絡が入った。
父は事故の記憶を失っていて、
真っ先に言ったのは、僕の進学のことだったと言う。
そして「合格しろよ」と言ったそうだ。
僕は複雑な心境だった。
そんなある日、担任のО先生が二枚の紙を持ってきた>>>
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一枚は育英会の奨学金申請書。
もう一枚は、先生が自ら作ってくれた、
奨学金がもらえる大学のリストだった。
先生は一通り説明してくれた後、
「俺だけじゃない。どの先生も、
お前のこと応援してるから、頑張れ。負けるな!」
と励ましてくれた。
本当に辛い時期だったから、その言葉が心に沁みた。
そして僕は、”やるだけやってみよう”と思った。
またいつもの生活が始まったが、もう僕は泣かなかった。
五月も下旬になると、妹の遠足があった。
いつもなら母が腕によりをかけて弁当を作るところだが、
今回は無理だった。
近所のおばさんに頼めば作ってもらえたが、
僕はこれ以上頼りたくなかった。
だから兄である僕が作ることにした。
大きくて不細工なおにぎり二個とゆで卵。
タコの形に切ったウインナーとハンバーグ。
僕にとっては最高のお弁当のはずだった。
だがやはり失敗した。
ショックを受けた僕は「人に見せるなよ」
と妹に言い聞かせ、送り出したのだった。
ところが、その日、帰ってくるなり妹は、
「みんなスゴイってほめてたよ!」
と嬉しそうに言った。
そして先生から頼まれたという手紙を僕に渡した。
それには、妹が
「これ、お兄ちゃんが作ったの」とみんなに自慢しながら、
おにぎりにかぶりついていたということと、
「大変でしょうが、頑張って」
という励ましの言葉が記されてあった。
僕は嬉しかった。
こんな情況の中でも暗くならず、
元気に振る舞っている妹が誇らしかった。
小学校三年生と言えば、まだ母親が恋しくてしょうがないはずなのに。
そして先生からの言葉。
ここにも僕たちを見守ってくれてる人がいた。
そう思っただけで、また勇気がわいてきた。
≪後略≫
あくる年の四月、菊池さんは晴れて大学生になることができました。
現在、放送局のアナウンサーとして活躍中の菊池さん。
菊池さんの番組に寄せられる中高生の便りを受けつつ、
豊かではあるが何か欠けていることを、菊池さんは感じるそうです。
それが何かを、自分の番組から感じ取ってくれればと、
マイクの向こう側に向けて、メッセージを送り続けています。
菊池さんの「恩返し」は、”頑張れ”の一語を
決まり文句のように使うことです。
なぜなら、その言葉で本当に頑張れることを、
その言葉で見えなかったものが見えてくることを、
知っているから、と語っています。