ラジオが家庭に初めて登場した頃を想像してみてください

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売新聞の経営者で、日本テレビの創設者でもある正力松太郎さん。

1924年、正力さんが社長に就任した時、朝日新聞の発行部数が91万部に対し、
読売新聞はたった5万部でした。

その翌年、ラジオ放送がスタートしました。

想像してみてください。

家庭の中にテレビも無く、多くのお家で電話も無く、そんな中にラジオが登場したのです。

家族全員が、くぎ付けになるほど、ラジオは主流のメディアになったのです。

そのせいで、新聞の人気には陰りが生じてきます。

まして、マイナーな新聞である読売の読者は激減し、
たちまちのうちに経営危機に陥りました。

そこで、社長の正力松太郎は起死回生の手に打って出たのです。

起死回生の策とは?

今では当たり前に行われていることです。

しかし、それは当時の常識の逆をいく方策だったのです>>>

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みんながおおっと驚嘆したその方策とは、
「新聞にラジオ欄を掲載する」ということだったのです。

今では当たり前のように載っている「ラジオ欄」。

ですが、当時は商売敵となるラジオの宣伝をするのは 自殺行為だと考えられていました。

他の新聞社に笑われながらも、読売はラジオ欄の掲載を続けたのです。

すると…

読売新聞の部数は落ちるどころか、徐々に売り上げを伸ばしていったのです。。

ラジオリスナーたちが、ラジオ欄がある読売新聞をこぞって購入したのでした。

正力さんは常にこう言い続けていました。

「読者が便利だと言って、喜ぶような新聞を作らなければならない。
 面子にこだわっている場合じゃない」

正力オーナーの目線は、ライバルに向かうのではなく、
お客様に向かっていたわけですね。

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