小さい頃、よく親父に連れられて街中を走ったものだった。
生まれた町は、田舎だったので交通量が少なく、
そして自然が多く、晴れた日には
とても気持ちのいい空気が漂っていた。
親父は、若い頃に箱根駅伝に出たらしい。
だから走ることが大好きで、息子にもその走る楽しさを
教えたかったのだろう。
もともと無口だった親父も、走ってる時だけは
ずっと僕に声をかけ続けていた。
普段の無口な親父が何となく怖かった僕は、
その時だけは親父が好きだった。
そしてお袋が縫い込んだタスキを使って、
駅伝ごっこをしたりしてた。
今思えば、親父はその時まだ青春時代に生きていたのだろう。
中学に入学した僕は、当然のように陸上部に入部した。
レースでは結構いい成績で、部活内でもトップレベルだった。
毎回応援に来てくれる親父は、
僕がいい記録を出した日には必ず酒を飲んでいた。
そして真っ赤な顔をして上機嫌で、
僕に同じことを繰り返し言った。
「お前と一緒に、箱根を走りたかったなぁ」
高校に入学しても陸上は続けた。
でも、思うように記録は良くならず、
さらに勉強についていけないのもあってか、
僕はいつもイライラするようになった。
勉強のことは口を出さないくせに、
陸上のことばかりを気にする親父のことを、
鬱陶しくも感じるようになった。
親父が期待してるのは知ってたから、
よけいに顔を見たくない気持ちだったのだろう。
反抗期というものだったのかもしれない。
そんなある日のこと。
その日のレースもいい記録は出なかった。
理由は分かっていた。
数日前に定期テストの追試のために、
勉強を夜遅くまでしていたから、体調を崩していたからだ。
一体自分は何をやっているのか、
その時の僕は本当に悩んでいた。
そして家に帰って、部屋のベッドでひとり天井を眺めていると、
親父が入ってきた。
レースのことで何か言われるのかと、
正直顔も見たくなかった。
親父は僕の横に座って、
長い沈黙の後にこう言った。
「なぁ、お前何のために走ってるんだ？
そんなに眉間にしわ寄せてさ。
父さんはな、お前が・・・」
親父がそこまで言いかけたところで、
僕の気持の方が爆発した。
「うるさい！出て行けよ、親父には俺の気持なんか分からないだろ！
もう嫌なんだよ。親父の顔を気にしながら走るのは。
勉強だってしなきゃいけないんだ！
親父の期待は、俺にとって重いんだよ！！」
そう一気に言い切ってしまった僕を、
親父は驚いた顔をして眺めていたが、
しばらくすると悲しそうな顔をしながら、
僕の頬を思い切り叩いた。
僕も反射的に殴りかえそうとしたところで、
必死になった母が間に入り、それまでだった。
それ以来、親父と気まずくなってしまい、
話すこともなくなり、その後すぐに僕は陸上部を退部した。
走るのを止めたのだ。
でも、それにより勉強の成績が良くなったわけでも、
イライラが消えたわけでもなかった。
毎日悶々としていた。
僕が部活を止めて２ヵ月くらい経った頃だった。
親父が急に倒れ、病院に運ばれた。
検査結果は末期のガンで、
あと数ヵ月の命だろうということだった。
僕はショックを受けたが、
まだ親父とのわだかまりが残っていた。
お袋に何度も誘われたが、
見舞いにはなかなか行けずにいた。
そうしてる間にも、親父の体力は徐々に落ちていき、
いつ死んでもおかしくない、というほどに弱ってきた。
そんなある朝、学校に行く前に
お袋が思い出すように話し始めた。
僕が高校に入ってからも、陸上を続けたことを
親父はすごく喜んでいたらしい。
だから僕の記録がなかなか伸びなくて苦しんでいる時、
親父も同じように悩んでいたと。
そしていつか、僕が走ることを嫌いになるんじゃないかと、
すごく心配していたらしい。
なのに、あの日、僕と衝突したあと、
一切僕が走らなくなったのに、何も言わなくなったのだと。
「あの人もガンコだからねぇ」
とお袋は付け足して、朝食の片づけをし始めた。
僕はその話に何か引っかかるものを感じていた。
学校に行ってもずっとそのことが気になり、
勉強どころではなかった。
そして休み時間、友だちが
「あの先生のせいで、数学が嫌いになった」
と言ったとき、ふっと僕の頭をよぎるものがあった。
そうだ！
僕はあの日、親父に言ってしまったのだ。
「親父のせいで走るのが嫌いになった」と、
そう言ってしまったのだ。
誰よりも走るのが好きで、
そして誰と走るよりも、僕と走るのが好きな親父に…。
僕は居ても立ってもたまらず、
授業そっちのけで、親父のいる病院に走った。
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道路には雪が積もり、何度も転びそうになったけど、
もうしばらく走ってなくて、心臓が破裂しそうなくらい
バクバクいってたけど、それでも僕は走った。
走ってる間、あの日、僕の頬を叩く前に見せた親父の
あの悲しそうな顔が何度も頭に浮かんだ。
病室に行くと、変わり果てた親父がいた。
ガリガリに痩せて、身体からはいくつかチューブが出て、
大きく胸を動かしながら、苦しそうに息をしていた。
走ってぜぇぜぇ言ってる僕を見つけた親父は、
「走ってきたのか？」
と消えるような声で言った。
うなずく僕に、親父が「そうか」
と言いながらベッドから出した手には、
ぼろくさい布が握られていた。
その手を突き出し、僕の手にその布を渡してきた。
それは、小さい頃、父と二人で走ってた頃のタスキだった。
「なぁ、走るのは…楽しいだろ」
親父は笑いながら言った。
その後、すぐに親父の容態は急変し、
そして間もなく死んでしまったのだ。
葬式なんかで慌ただしく物事に追われ、
ようやく落ち着いて部屋に戻ったとき、
机の上に置きっ放しにしていたタスキを見つけた。
親父の夢は、僕と箱根を走ることだった。
そして僕にタスキを渡すことだった。
もちろん一緒に箱根なんて走れない。
それは親父が生きていても同じことだ。
でも親父は、確かに僕にタスキを渡した。
なぜだか涙があふれて止まらなかった。
そうだ、僕は確かに、タスキを受け取ったのだ。
冬が明けると、僕はまた走り始めた。
小さい頃に親父と走ったあの道だ。
記憶にあるのと同じ木洩れ日、同じ草のにおい、同じ坂道。
ただ違うのは、隣に親父がいないこと。
今、僕は結婚して子供が出来た。
いつかこの子に、このタスキを渡したいと思っている。