星野仙一さんは、手厳しいだけの人じゃなく…

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野仙一氏は、監督としてチームを率いる指導力において、
誰からも一目置かれる存在でした。

恐らく好き嫌いは多くあるでしょうが、
結果として、チームを優勝に導く指導力は誰もが認めるところでしょう。

ただ、組織を束ねる上で、
単に「厳しさ」だけで人は動くものではありません。

まして、プロ集団をひとつにまとめるのに、
人間力を欠いたリーダーシップはあり得ない話でしょう。

星野さんの人間的な優しさを示すお話がありますので、紹介します。

星野さんは、小学校時代、岡山県倉敷市で過ごしていました。

同級生に、ジストロフィという重い障害を持った
定金正憲君という友達がいました。

彼は学校に行くのをいつも嫌がって、
お母さんを困らせていました。

しかし、星野さんと同じクラスになってからは、
毎日喜んで学校に行くようになったのです。

星野さんが定金君を毎日背負って登校してくれたからです。

定金君は放課後も楽しそうに、
星野さんが野球をしている姿を眺めていました。

星野さんは、どんなに練習が厳しくて疲れていても、
練習が終わると、定金君を背負って彼の家に送って行きました。

雨の日には定金君が濡れないように、
リヤカーに乗せて連れて行ったそうです。

定金君との交流は、小学校を卒業して大人になっても続きました。

そして、星野さんは、ご承知のような活躍で
プロ野球での実績を残しました。

星野さんにとって、監督として最初に中日ドラゴンズを
リーグ優勝に導いた時のことは、どうしても忘れられません。

1988年、星野さん41歳の時です。

同じく41歳になった定金さんも、
星野さんにメッセージを送っていました。

「頑張ってください。優勝してください。いつも僕は見ています」

熱血漢の星野さんは、伏せりがちだった定金さんに約束していました。

「必ず優勝する。君も早く元気になってくれ。
 そして球場で俺の胴上げを見てくれ」

まだ優勝決定に至る2週間前のことでした。

星野さんに悲報が入りました>>>

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野さんには、残念なことに、
定金さんが亡くなられたとの知らせが入ったのです。

まだ俺の胴上げを見てないじゃないか。

星野さんは誰にも見られず男泣きしました。

定金さんのお母さんは次のように語っています。

「息子が41歳まで生きてこれたのは、星野さんのおかげです。
 息子は、星野さんの活躍を見て、夢と希望をもらっていたんです
 息子にとって星野さんは、同級生であり、神様だったんです。
 息子は幸せだったと思います。感謝しています」

星野さんのリーグ初優勝は、定金さんへの思いともあいまって、
終生、忘れられないものになったようです。

【大切な人に贈りたい24の物語】を下敷きにしています。

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