6年前、2018年1月1日に、ローマ法王フランシスコが、
ある写真をカードに印刷して配布するよう指示したことが分かりました。
カードの裏には、法王の要請により
「戦争が生み出したもの」という言葉が記載されています。
その写真には次のような出自があります。
昭和20年(1945年)8月9日、一発の原子爆弾が、
長崎を焼き尽くし、7万4千人が死亡しました。
この写真を撮影したのは、占領軍として長崎に入った
米海兵隊オダネル軍曹。
彼はアメリカに帰国し写真は封印。
家族にも隠してきたのです。
67歳になった43年後この写真を公表すると決断しました。
~オダネル氏本人のコメント~
佐世保から長崎に入った私は、
小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男たちが
目に入りました。
男たちは60センチほどの深さにえぐった
穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みした死体を、石灰の燃える穴の中に、
次々と入れていたのです。
10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、
幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、
広場で遊んでいる子供たちの姿は、
当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、
はっきりと違っています>>>
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少年からは、重大な目的を持って
この焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、
硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、
首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分あるいは10分ほども
立っていたでしょうか。
やがて白いマスクの男たちが、おもむろに近づき、
赤ん坊を少年の背中から受け取りました。
そして、ゆっくりと葬るように、
赤ん坊を、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
幼い肉体は、焼き場の中で、まばゆいほどの炎を立たせ、
その炎は、さっと空中に舞い上がりました。
真っ赤な夕日のような炎は、
直立不動の少年の、まだあどけない頬を
赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる
少年の唇に血がにじんでいるのに、気づいたのは。
少年があまりにキツく噛みしめているため、
唇の血は流れることもなく、
ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。
夕日のような炎が鎮まると、
少年はくるりときびすを返し、
沈黙のまま…
焼き場を去って行きました。