二人とも、ソフトボールの強豪・京都の明徳商業高校(当時)の
ソフトボール部でした。
その練習が、とにかく厳しかった!
毎日夜遅くまで練習で、当時は水も飲んだらダメ、
泣いても笑ってもダメ。
思い返しても、あの三年間ほど辛いものはありませんでした。
吉本に入ったのは、高校卒業後に知り合いから
「吉本が漫才師を募集してる」と聞いたからです。
でも面接の結果は、全然ダメ。
面接官全員から「やめとき」と言われました。
が、やめろと言われたら燃えるのが体育会系です。
「根性も貯金もあるから大丈夫です!」
と言い切って、島田洋之助・今喜多代師匠に
弟子入りさせてもらいました。
そこからが長かった。
師匠や先輩からは怒られてばかりやし、
やってもやっても売れへんのです。
お金もなくなるから、ガソリンスタンドや喫茶店で
必死にアルバイトをして。
でも、辛いとはまったく思わなかった。
二人とも、
「あのソフトボール部の練習に比べたら、何でもあれへん」
と思っていたのです。
そして十年目。
転機がやってきます。
当時の大スター、やすしきよし師匠が出演する
大人気番組「花王名人劇場」に出演するチャンスが飛び込んできた。
うれしかったけど、実は、
「ここでウケなかったら芸能界に見切りをつけよう」
と二人で考えていました。
当日は二人で気合を入れて、
「それいけーっ」と舞台へ出て行きました>>>
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必死やから力が入ったんでしょう。
私がお腹をポーンと叩いたら、
ベルトのバックルが弾けて飛んだんです。
それでお客さんがドッと笑った。
いくよちゃんも、つけまつ毛をバタバターッとさせて、
首の筋が浮き上がって。
それを見て思わず、
「あんた首に筋が出てるやん」
「御堂筋や!」
と。
私たちを支えたギャグ誕生の瞬間です。
悔いが残らないよう、全力でやったらウケた。
それからは信じられへんくらい仕事がきて、
二人で全力で駆け抜けてきましたね。
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いくよちゃんにがんが見つかったとき、
私は謝りました。
ずっと一番近くにいたのに、全然気づけなかった。
でも、彼女は逆に私を励ましてくれたんです。
「普段からやるべきことをやってたら、
ここ一番のときも大丈夫やから」
と。
本当に前向きな人でした。
彼女が亡くなるときのことです。
心拍がだんだん弱くなって、もう(止まった)——-。
そのとき、私は出せる限りの大きな声で叫びました。
「大丈夫かーーー!」と。
そしたら、ピクッと動いたんです!
感動しました。
あれはきっと、
「ありがとう」と言ったんやと思う。
そこまで周りに気を遣う、素晴らしい人でした。
それを思うと、私も頑張らんわけにはいかんでしょう。
いくよちゃんと漫才はもうできないけど、
私なりにできることをやっていきたい。
私はお客さんが大好きやし、大笑いしてもらいたい。
いくよちゃんも、
「くるよちゃんは明るくて、
どこへ行っても喜ばれるんやさかい大丈夫。
一人であかんかったら私が空から突っ込むし」
と背中を押してくれてる気がします。
誰よりも、そして最期まで前向きやったいくよちゃんを見習って、
これからも笑顔で生きていきたいと思います。