シベリア孤児を救え!日本とポーランドとの友好

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一次世界大戦が終わった翌年、
1919年にポーランドはソビエトから独立しました。

しかし、シベリア極東地域には、
10万人を超えるポーランド人が、独立した祖国に帰れず、
難民として取り残されていました。

彼らは、反乱を起こして捕まった政治犯の家族や、
混乱を逃れてこの地へ逃走してきた人たちでした。

独立のための戦火の中で、シベリアのポーランド人たちは、
凄惨な生き地獄に追い込まれます。

食料も医薬品もない中で、多くの人々がシベリアの荒野を彷徨い、
餓死、病死、凍死に見舞われていきました。

食べ物を先に子供たちに食べさせていた母親が遂に力尽き、
その胸にすがって涙を流しながら死にゆく子供たち…。

そんな光景があちらこちらで見られたといいます。

彼らは、自分たちは死んでもいいから、
何とか子供たちだけでもポーランドに帰してあげたいと願い、
「ポーランド救済委員会」を組織しました。

この「委員会」では、子供たちの輸送の援助を、
アメリカやヨーロッパ諸国に要請します。

しかし、独立したばかりの、しかも公的な組織でもない、
委員会の声を受け入れてくれる国はどこもありませんでした。

1920年、彼らは最後の手段として、これまでに交流もなく、
民族も違うものの、ウラジオストクに近い場所にあるという理由だけで、
ある国に救済を要請します。

その相手の国とは、そう我が国、日本でした。

当時(大正9年)の日本政府は、救出要請の訴えを聞き、
どう反応したか?>>>

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本政府は、要請を受けてからわずか17日後、
シベリア孤児たちを救済することを決断しました。

まだお互いに大使館もない国の、
しかも民間組織の要請をすぐさま受け入れたのは、
人道的な理由に他なりません。

大変な費用と手間が必要であったにもかかわらず、
これは驚くべき即断といえます。

日本人は、シベリアのポーランド人たちの惨状を見るに見かねたのでしょう。

決定から2週間後、シベリア孤児の第一陣が
陸軍の輸送船で日本に到着しました。

それから何回にも渡ってシベリア孤児は日本に送られ、
その数は765人にもなります。

また言葉も違う土地に子供たちだけではかわいそうと、
65人の大人も呼ばれました。

救済活動の中心を担ったのは日本赤十字社でした。

シベリアで死の淵を彷徨ってきた孤児たちは栄養失調で身体も弱り、
腸チフスなどの病気が猛威を振るうこともありました。

そんな不憫な孤児たちに同情し、
日本では朝野を挙げて温かく迎え、世話をしました。

東京でも大阪でも慰問品や寄贈金が次々と寄せられ、
慰安会も何度も行なわれました。

このような献身的な看護や、温かいもてなしの甲斐あって、
孤児たちは、みるみるうちに元気を取り戻し、
全員が無事、ポーランドに帰国していきました。

横浜港や神戸港から出航する時、
幼い孤児たちは親身に世話をしてくれた
日本人の看護婦や保母たちとの別れを悲しみ、
乗船を泣いて嫌がるほどでした。

苦難に満ちたシベリアでの生活を過ごした孤児たちにとって、
これほどまでに温かく親切にされたのは、
物心ついてから初めてということも多かったのでしょう。

彼らは口々に「アリガト」など、覚えたての日本語を連発し、
「君が代」などを歌って感謝の気持ちを表わします。

帰る子供たちも、大勢の見送りの日本人たちも、
涙を流しながら、姿が見えなくなるまで手を握り続けたのでした。

それから70年以上の月日が流れた1996年の夏休み、
前年の阪神・淡路大震災で孤児になった、
日本の小中学生がポーランドに招かれ、手厚い歓迎を受けました。

それはもちろん、シベリア孤児を助けてくれた日本に対する、
恩返しだということです。

参考URL http://shuchi.php.co.jp/article/1812

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