この両雄の築いた「柏鵬時代」と呼ばれる黄金期は、
大相撲の歴史に明確な足跡として残されています。
また感動的なエピソードも数多く残しています。
柏鵬が横綱に同時昇進する昭和36年(1961年)九州場所までに、
二人は11戦しています。
この11戦は8勝3敗で柏戸の圧勝でした。
大鵬はあるとき、
『こんなに一所懸命努力しているのに
遊び惚けている(ように見える)人になんで勝てないのか』
と涙をこぼしたそうです。
しかし、横綱になってからの両者のバランスは違ってきます。
昭和38年(1963年)9月場所でのことです。
大鵬は新横綱の場所から6連覇するなど
優勝回数をどんどん増やしていきますが、
柏戸は横綱になってからはまだ一度も優勝していません。
柏戸は怪我に怪我を重ね、
4場所連続休場で久々に土俵に上がりました。
両者14勝の全勝同士での横綱の戦いです。
誰もが大鵬の勝利を信じていました。
ところが4場所連続休場明けの柏戸が、
破竹の勢いの大鵬に勝ったのです。
どよめく歓声。
柏戸も部屋の親方はじめ仲間たちも、
これまでの柏戸の我慢の時期を知っているから、
感涙にむせびました。
しかし、その数日後、
その柏戸が悔し涙を流す事態に追い込まれます。
それは柏戸にとっても、
また大鵬にとっても屈辱的な風聞だったのです>>>
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この時の両横綱の激突に対し、「八百長ではないか」
との談話をした若手の作家がいたのです。
「日本の文化を汚した」との非難を両横綱に向けました。
そのインタビュー記事は新聞に掲載されたものですから、
相撲協会も沈黙するわけにはいきません。
当時の時津風理事長(元双葉山)は、両横綱を呼び出し、
事情聴取をしました。
「八百長をするような横綱はいらない。
お前たちはどうなんだ?」
と理事長が詰問します。
両横綱とも「絶対に八百長はやっていません」と断言。
理事長は二人の目を見て、それ以上の追及はせず、
名誉棄損の訴訟準備を始めたといいます。
柏戸の心境はこうでした。
柏鵬時代と言われつつも水をあけられ、怪我で4場所も休場。
不安と恐怖に苛まれながらも復活を信じて、
一生懸命頑張ってその結果の全勝優勝。
横綱になって初めての優勝!
今までの苦しみもこれで吹っ飛ぶはずだったのです。
それが不名誉な「八百長」の嫌疑がかけられた。
その悔しさはどうにも我慢できず、
帰りのタクシーで同乗した大鵬の前ながら、
柏戸は車内で号泣してしまいました。
ライバル視して、それまでろくに口もきかない二人でした。
大鵬によると、
この時、初めて心が通じ合ったような気がしたそうです。
その後、大鵬は北海道の実家に帰り、
実家の玄関に、自分の横綱姿を映した大きな写真を見届けました。
実に威風堂々たる写真ではありましたが、
大鵬は不満そうな表情でした。
その理由とともに、大鵬はこうお願いしたそうです。
「相撲の人気は自分だけのものじゃない。
柏戸関も半分支えているんだ。
だから、柏戸関の写真も一緒に飾ってくれないか」
余談となりますが、八百長を指摘した若手の作家とは、
その後、国政に進出して名を成し、やがて都知事にもなった、
あのお方でした。
相撲協会からの訴訟の話を聞き、
慌てて「ほんとの話」を暴露したのです。
実はこの作家さん、この取り組みを実際には見ずして、
「八百長」を論じていたのです。
不利な側が勝利したこと、
知り合いの記者から八百長だと耳打ちされたことなど、
薄弱な根拠で、名のある作家が無責任な発言をしたわけです。
この作家の軽い舌は、しかし図らずも
両横綱の友情を深める契機になったようです。