沖縄の人の心に触れて、森山良子さん

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から四十数年前、私はこの歌「さとうきび畑」と出会いました。

静かで美しいメロディに載せる歌詞は、
言葉に尽くせない戦争の苦しみを味わった
沖縄の人々のことを描いています。

二十一歳の時から、この歌を歌うことになりましたが、
あまりのテーマの重さと深さに圧倒され続けてきました。

ステージで歌えなくなったり、自信を失い、
歌うことすら封印したり。

この歌をめぐる葛藤は、私の歌手人生の中で最も重く、
長い時間を要したのです。

2001年に、私は沖縄でこの歌を歌う機会を得ました。

沖縄の人間でもなく、戦争も体験していない
私などが歌っていいのだろうか、
はたして歌えるのだろうかと、
再び自問自答を繰り返しました。

そして迎えたステージ。

このステージで私は自分の思いを吹っ切るような
体験を得ることができたのです>>>

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は、暗闇の客席に、同世代の人々が
涙を溜めて聴いてくださる姿を見つけました。

終演後、
良子ちゃん、『さとうきび畑』を歌い続けてくれてありがとうね
と言ってくれた沖縄のファンの方。

その涙と笑顔に、
この歌との長く深い葛藤が氷塊したように感じました。

それは私自身がこの歌に救われ、
癒された瞬間でもありました。

聴き手に芽生えた感情や言葉が私に還ってきた

それが私の中で歌の意味を鮮明にし、
癒しさえもたらしてくれたことは、
私にとって、宝物のような体験となりました。

そしてあらためて歌の力を知ったのです。

沖縄では、もうひとつ忘れられない出来事があります。

とある食堂で地元の方々に紹介され、その場で
『涙そうそう』を歌ったことがありました。

すると陽気な沖縄のおじいやおばあが、
歌に合わせて一緒に踊ってくれたのです。

最初は満面の笑顔で、掌を軽やかにひるがえしながら、
エイサーを踊っていたおじいとおばあ。

その頬にいつの間にか涙が伝っていました。

泣きながら、彼らはそれでも踊り続けているのです。

私はとうとう歌うことができなくなりました。

その涙を見て気づきました。

大切な人をたくさん亡くし、
凄まじい戦禍を生きてきた苦しみや記憶は
決して拭い去ることはできないはず。

なのに、彼らの笑顔はいつも底抜けに明るいのです。

出会った私たちに勇気さえも与えてくれる笑顔。

その健気さと強さに私は驚き、心が震えました。

『涙そうそう』を一緒に作った石垣島出身のグループ
「BEGIN」のメンバーも、以前に言ってました。

「この歌を歌うようになって、おじいやおばあが泣いているのを
 初めて見たよ。初めて泣いているよ」と。

歌は人の心の扉を開け、心に寄り添います

その担い手として私は、
いろんな場所で聴き手の苦しみや悲しみ、切なさを知ります。

その重さは決して軽くはありません。

けれど、そういう人々に出会いたいと願い、
出会えることのありがたさや尊さを感じてきました。

その両方を知り得たからこそ、
私は歌を歌ってこられたのだと今思います。

沖縄のおじいとおばあの笑顔もまた、
絶望に近い苦しみを知り、その果てから折り返して
生きてきた人の持つ明るさのように思います。

その笑顔には、語り尽せない思いがいっぱい詰まっている。

すべてをのみ込んだ人間は何と強く、深いのでしょう

その力強い笑顔をもらった私は
「ありがとう」と心の中でつぶやき、
私もまた誰かにその人間の強さを笑顔で伝えていきたいと思います。

歌を通して、
生き方を通して…。

参考本:PHP特別版
「人づきあいのうまい人、へたな人」より(PHP研究所)

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