24歳の高杉晋作が、日本・植民地化の入り口を閉めた

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う6年前になりましたか。
NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」という番組がありました。
吉田松陰の松下村塾から輩出される、維新の若き志士たちの姿が描かれました。

高杉晋作が連合国側との交渉に臨むくだりは、
特に好きな場面なのでよく覚えています。

イギリスとの戦争に敗れた長州藩は、
講和大使として24歳の高杉晋作を選びました。

松陰先生の薫陶を受けた秀逸な塾生、
高杉晋作は家柄だけで重責を任されたわけではありませんでした。

誇り高い高杉に長州の矜持を示して欲しかったのかもしれません。

交渉の場に現れたイギリスのクーパー提督は、
山口県の南端にある「彦島」を租借したいと言いました。

クーパー提督は、英・仏・米・蘭の連合国側の代表でもあり、
数多くの条件を提示していました。

晋作は、そのほぼ全ての条件をのみますが、
「彦島の租借」については、頑として要求にノーを突きつけました。

この交渉の席では、後の総理大臣の伊藤博文が通訳をしており、
そのときの高杉晋作の豪胆ぶりや、先読みの深さについて感服しています。

高杉晋作が、ほぼ全ての条件をのみながらも、
「彦島の租借」についてのみ、絶対に譲歩しなかったのには、
ちゃんとした理由があります。

晋作が、難しい交渉で相手の要求を取り下げさせた、
それを可能にした理由とあわせて、
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島の租借」を提示された高杉晋作。

クーパー提督に対し、烈火の如く怒りました。

というのも、晋作はその2年前に上海で、
西洋の租借地の様子を見ていたからです。

「犬と中国人、入るべからず」と書かれた看板を見て、
このままだと、日本もいずれこうなってしまうと
危機感を募らせていたのです。

晋作は、場合によっては相手を斬り、
自分も自害するほどの覚悟で、交渉に臨んでいたといいます。

晋作の気迫に圧されたクーパー提督は、
額に脂汗を流しつつ彦島の租借をあきらめました。

しかし、もしこのとき、高杉晋作が「ノー」を突き付けなければ、
今日の日本の近代化は無かったとまで言われています。

皆と仲良くする「和」を大切にする私たちですが、
ここぞという時、最も大切なものを守るためには、
「ノー」の姿勢を貫くことがいかに大事なことなのか、
この交渉の場面の高杉が教えてくれます。

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