もう決して、僕はよその物を盗りません

a991
学校に入る少し前の冬のことだったと思います。
私は「ぬり絵」に夢中になっていました。

日がな一日、クレヨンをもてあそんでいたように思います。

その書店には、瞳に星の入った少女シリーズのものと、
童話のぬり絵とがありました。

童話は「かぐや姫」「かちかち山」「浦島太郎」
「桃太郎」「うさぎと亀」などがあり、
5、6枚の絵がノートになっていて、色を塗り終えると、
童話の絵本が出来上がるというものでした。

私は、母からもらってきたばかりの20円を手に、
前々から決めていた「浦島太郎」を買いに書店にやってきました。

竜宮城の乙姫の舞い姿や、魚を色とりどりに、
彩色するのを考えるだけでワクワクしてきました。

ところが、買う段になって、「桃太郎」に目移りしてしまったのです。
数匹の鬼を、それぞれ違った色で仕上げてみたい衝動にかられました。

両方欲しいけど、一冊分しかお金がない。
ここにきて迷いました。さて、どっちにしようか……。

長い時間、悩んでいたような気がします。

が、それは一瞬のことだったかも知れません。

私は主人の目を盗んで「桃太郎」の表紙の裏に、
すばやく「浦島太郎」をはさんだのです。

ノートは薄いから一冊に見えました。

犯行は計画的でした。

喉が渇きました。

「はい、ありがとさん」

主人がぬり絵を受け取り、私は20円を目の前に置きました。

主人の手が、紙袋にぬり絵を入れようとしたとき、
おや?と止まりました>>>

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間、私は目を伏せました。

いきなり心臓が、冷たい手で握られたような気がしました。

表紙の裏に隠した「浦島太郎」が見つかったのです。

ところが主人は、声をあげてとがめようとはせず、
「桃太郎」の中にはさんだ「浦島太郎」を引き出して、
ニ冊を重ね、それを何ごともなかったように紙袋に入れて、
「ありがとさん」と、微笑んで差し出しました。

信じられませんでした。

逃げるように駆けながら、もしかしたら、
一冊10円だったのかもしれないと確かめました。

20円に間違いありませんでした。

見逃してくれたのだろうか、
いやいや、後をつけてきて、親に意見するに違いない。

後ろを振り返るのが怖くなりました。

もう、決して泥棒の真似ごとなんかするもんか。
だから、どうぞ後をつけないでください…
祈るような気持でした。

今も私の胸のうちに、尾行をまいて、
ぐるぐる遠回りして帰った灰色の記憶が残っています。

家に戻ると、母が、一冊分のお金しか渡さなかったのに、
二冊持って帰ってきたのはなぜか、と問い質しました。

私は苦しくなって、とっさに
「おまけしてくれたんだよ」と嘘をつきました。

母はすぐに私の嘘を見抜きました。

私は、母に手を引かれて、その書店に戻りました。
一緒に謝るから、二度とよその物を盗ってはならない、
と戒められました。

「はっははは……。おまけでのう、あげたんだがさ」

母の事情を聞いていた書店の主人が、
大きな声で笑い出しました。

覚悟を決めていた私は、びっくりして顔を上げました。

主人は、私の顔を覗き込み、
「な、おまけしたんだよなぁ」
と、大きな手で痛いほど、私の頭をゴシゴシ撫でました。

「お母さんの気がすむなら、もう20円もろうてもいいがや」

主人の冗談に、母も笑ったような気がします。

それからの記憶がまったくありません。

どうやって書店から戻ったのか、
そしてあのぬり絵はその後、どうなったのか…。

最近、帰郷して、その書店に立ち寄ってみました。

主人はいませんでした。

レジの前で若い夫婦が、帳簿を見ながら電卓をたたいていました。
息子夫婦かもしれません。

主人はもう亡くなってしまったのでしょうか。

地方の書店には、地域ならではの珍しい本が置いてあります。

ここでも、この土地の古い写真集が棚にあり、
それを手に取ってパラパラめくって眺めていました。

子供の頃の懐かしい街や、港の風景が写っていました。

今はもう人の服装も、街のたたずまいもすっかり変わりましたが、
あのころの故郷の空気は、その白黒の写真集に
しっかり閉じ込められていました。

その時でした。

奥から、子どもを抱いた老人が現れたのです。

あの時の主人でした。抱いているのはお孫さんなのでしょう。

髪は白くなりましたが、主人の顔はあの時と、
少しも変っていません。

主人が若い二人と交代してレジに座りました。

子どもに見せる優しい笑顔も、あの時のままでした。

私は、時が止まってしまったような錯覚に、
めまいのようなものを感じ、写真を見ながら、
しばらく主人の様子を眺めていました。

写真集には、主人のあの時の広い心も
定着しているように思えました。

やがて、私は、その写真集を持って、レジに向かいました。

「はい、ありがとさん」

あの時と同じ声で、主人が言いました。

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