もとは歌手・女優でしたが、50年ほど前に、
障がいを持つ子供たちの養護施設「ねむの木学園」を作った人です。
歌手としての宮城さんは、ヒット曲にも恵まれ、
テレビにも頻繁に登場していました。
そのままで十分充実した生活だった宮城さん、
どうして、障がい児に目を向け、
救いの手を伸ばすことになったのでしょうか。
宮城さんは、その動機が「怒り」にあったと言います。
あるとき、障がいを持つ子供たちがいる施設を訪れました。
宮城さんが子供たちに尋ねました。
「学校はどうしてるの?バスでお迎えに来てくれるの?」
答えられない子供たちに代わり、職員さんが答えました。
「就学猶予という制度があるんです。
この子たちは、学校に行かなくていいんですよ」
この言葉を聞いた瞬間、宮城さんの心は怒りでいっぱいになったそうです。
「行かなくていい」のではなく、「行かせない」ということでしょ。
どうして同じ子供なのに、障がいを持っているだけで差別をするの。
この子たちも、きっと皆と同じように
学校に行きたいと思っているはず。
大人の都合や社会の差別で、子供たちの人生を奪っている。
全身に怒りが駆け巡ったのを
宮城さんは、昨日のことのように覚えているそうです。
何年か考えた末、宮城さんは、
「ならば、私がやる!」と立ち上がったのでした。
女優活動と社会福祉法人代表者の二足のワラジ。
宮城さんは、
「努力した」
と語っています。
それはそうでしょう。
並々ならぬ決意と行動、その証しとしての努力。
やがて、法律が変わり、すべての子供が
学校に行けるようになったとき、宮城さんはとても喜びました。
自分の施設にも学校を作り、文部省の認可も受けました。
その頃の宮城さんの生活は、昼に東京・名古屋で公演をこなし、
終わればすぐに静岡の「ねむの木学園」に帰る過酷なものでした。
もうへとへとになる毎日でした。
しかし、そんな宮城さんの疲れを
ふっとばしてくれるものがありました。
それは…>>>
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宮城さんのへとへとの疲れを癒してくれるもの、
それは、ねむの木の合唱団でした。
身体に障がいのある子が、コーラスするなんて、
親御さんたちにとっても、考えられないことだったのです。
たしかに障がいを持つ子供は成長のスピードは遅いようです。
でもそれは、単に「ゆっくり」というだけのこと。
コンサートに来る人たちは、その美しいハーモニーに、
耳を傾けます。
そして、涙を流しながら感動する人もたくさんいます。
普通なら2年間で出来る曲を、
子供たちは10年かけて練習しました。
その差の8年分が皆の心を震わせる、と宮城さんは語ります。
そんなことも分からない役所の人が、
二十歳を過ぎたら施設から出しなさいと言います。
施設にいられるのは二十歳までという法律があるのです。
「まだ成長の途中です。
そんな子供をどうして他に移せますか?
私にはできません」
宮城さんはきっぱりと拒否し続けました。
当時の役所にとってみれば、
「ねむの木学園」は問題校という扱いだったことでしょう。
でも、宮城さんは一向に意に介しませんでした。
なぜならば、こここそが
「本当の学校」だという強い信念があったからです。
≪この話、後篇につづきを記述させてください≫
参考:PHPプレミアム「明日も前向き!」
(PHP研究所)