昭和30年代、本田技研工業はスーパーカブなどの大ヒットを受け、
新しい工場を開設することになります。
どこに工場を作ればよいかと、日本全国にいくつかの候補地があげられ、
各地を社長の本田宗一郎が視察に回りました。
それぞれの候補地にとっては、大会社の工場を誘致することで多くのメリットが得られます。
そのため、各自治体とも本田宗一郎に気に入られようと、
用地の説明もそこそこに接待ばかりに熱心になりました。
そんな中、接待を一切せず、
真夏なのにクーラーのスイッチも入れずに彼を出迎えた自治体がありました。
それが鈴鹿市です。
当時の市長は渋茶を一杯出しただけで、お茶菓子すら提供しませんでした。
サービスしたことと言えば、汗をかいた彼に対して何度もおしぼりを提供したくらい。
その代り、あらかじめ本田技研が送った質問には懇切丁寧に回答してみせます。
本田宗一郎にとって、工場を鈴鹿市に決めた決定打がひとつありました。
他の自治体では見せなかった鈴鹿市のある姿勢が、宗一郎の胸に響いたのです。
ただ、逆に鈴鹿市が宗一郎に提案したひとつのことに対しては、頑として宗一郎は拒絶的でした。
鈴鹿市が見せた姿勢で、宗一郎の胸に響いたこととは何か?
また、鈴鹿市が提案したことで、宗一郎が頑として拒絶したこととは何か?
こちらよりごらんください>>>
↓Facebookの続きは、こちらからどうぞ↓
鈴鹿市は、接待など、お金のかかる行為を何ら宗一郎に示しませんでした。
ただ、あらゆる場面で、本田の工場をここに誘致していただきたいという熱意を、
現地の行動で示したのです。
特に、誘致予定の現場では、市の職員が土地の広さが分かりやすいようにと、
炎天下の中、旗を立てて持って立っていたのです。
このような行為に対し、人の心の分かる本田宗一郎です。これが大きい決定打となり、鈴鹿工場の誘致が決定したのでした。
本田技研鈴鹿製作所の開設には、こんな経緯がありました。
鈴鹿市は、鈴鹿製作所の完成にあたり、市の名前を「本田市」にすることを宗一郎に提案します。
しかし、彼は「伝統ある地名を個人名に変えるなんてとんでもない!」と丁重に断ったそうです。