騎士道のお国の人は、日本の武士道をよく認識しました

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争は、絶対に美化したり肯定すべきではないと思います。

このお話は実際に戦時中に起きた話ですが、
決して当時の日本軍国主義を讃える意図ではありません。

1942年3月ですから、
まだ日本軍の戦況が逼迫している頃ではありません。

日本国海軍には「雷(イカズチ))」、
それに僚艦「電(イナズマ」という駆逐艦がありました。

「電(イナズマ)」が撃沈された英国海軍重巡「エクスター」の乗組員376名を救助し、
翌日には「雷(イカズチ)」が、駆逐艦「エンカウンター」等の乗組員422名を救助した、
というお話です。

スラバヤ沖海戦が終わった翌日に、
現場海域を通過中の見張りが多くの漂流物を発見しました。

そして撃沈された英海軍駆逐艦の、多数の漂流者を見つけたのです。

英国の漂流者たちは、友軍であるオランダ軍基地が近いことから、
オランダが助けてくれると思い漂流していました。

そこに現れたのが、敵である日本の駆逐艦だったのです。

「機銃掃射で皆殺しにされる」
と覚悟をしたと、生存者たちは言います。

なぜなら、連合国、敵国ともに軍艦は、多くの場合、
救助せず皆殺しにしてきたからです。

しかし、

「漂流者を全員救助せよ」

「漂流者は一人も見逃すな」

目の前に停船した日本の駆逐艦からは、
はしご、ロープ、竹竿が漂流者に向かって下ろされて、
「それに掴まれ!」と言っているのが分かりました。

長い漂流で、限界に来ていた水兵は、
竹竿に触れた瞬間に、気が緩み沈んでいったと言います。

それを艦上から見た日本の水兵は、
飛び込んで水中から助け上げました。

自力で船に上がれないほどに弱っていた英国水兵たち。

その状況を知らされた「雷」の工藤艦長は、
「一番砲塔のみ残し、他の兵は全員救助に当たれ」
と命じました。

「雷」乗組員の2倍にも及ぶ英国水兵たちを助け上げましたが、
工藤艦長は、捜索の続行を命じました。

燃料不足の懸念を伝えられても「構わない」と答えました。

一人でも漂流者を見つけると、
駆逐艦を止めて救助に当たったのです。

救助した敵兵が油まみれであったため、
日本兵は、彼らをきれいに拭いてやり、
貴重な水と食料を存分に彼らに与えました。

甲板の一か所に集められた士官たち。

不安に思いつつ待つ彼らの前に現れた工藤艦長は、
次の言葉を発しています>>>

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「You had fought breavely.」
諸君は勇敢に戦われた。

「Now,you are the guest of the Imperial Japanese Navy.」
諸君は、日本帝国海軍の名誉あるゲストである。

英国将兵たちは、敬礼を以って感謝の意を表したのでした。

徹底的に漂流者を捜索した後、翌日に、
停泊中のオランダ病院船に、救助した捕虜を引き渡しました。

救助された元海軍中尉サムエル・フォールは、
戦後は、外交官として活躍し、サーの称号も得ました。

彼は恩人の工藤艦長の消息を探し続けていました。

工藤艦長、工藤俊作氏は、戦後何も語らなかったため、
日本でこの話は広がることはありませんでした。

それが英国において、サムエル・フォール卿の
『ありがとう武士道』が出版されて知られることとなりました。

サムエル・フォール卿は、工藤氏の消息を掴みましたが、
既に工藤氏は他界しており、
2008年、記念法要に参加し献花を行いました。

駐日イギリス大使館附海軍武官付き添いのもと、
法要が始まる時に、フォール卿は遺影に敬礼をし、
再会を果たしました。

イギリスから、はるばる感謝を述べるために来日したフォール卿は、
その日の出来事を振り返り、次のように語りました。

「救助の旗が揚がった時は、夢かと思いました。
 彼らは敵である私たちを全力で助けてくれたのです」

「1人、2人を救うことはあっても、全員を捜そうとはしないでしょう。
 たとえ戦場でもフェアに戦う。
 困っている人がいれば、それが敵であっても、全力で救う。
 それが日本の誇り高い武士道であると認識したのです」

工藤氏は、この日の出来事を家族にも語らなかったそうです。

当時の「雷」の航海長を務めていた谷川清澄氏は、こう証言しています。

「(工藤氏ならきっと)俺は当たり前のことしかやってないんだ。
 別に褒められることでもない」
と言ったと思います。そういう人でした。

語らなかった真の理由は、
やはり美徳ゆえに語らずとの、
工藤氏の信念にあったと言えるかもしれません。

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